鞆の浦

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「対潮楼」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

鞆の浦は瀬戸内海上交通の要衝で、潮流が変化するポイントであることから「潮待ちの港」とも言われ、国内外の要人も多数この地に立ち寄ることになった。そんな賓客をもてなすために福禅寺に設けられたのが対潮楼である。

徳川幕府は「鎖国政策」をとったが、完全に外国との門戸を閉ざしたわけではなかった。オランダ、中国とは制限つきながらも長崎を通して貿易を続けたし、朝鮮、琉球との交流も行っていた。李氏朝鮮から江戸に派遣される朝鮮通信使や長崎のオランダ商館員の江戸東上、また琉球の使節などもその航海中に鞆の浦に立ち寄った。

朝鮮通信使随行員の李邦彦は、福禅寺客殿からの眺めを「日東第一形勝」(日東とは、中国から見て日の昇る東方という意味で、日本のことをさす) と賞賛し、延享5年(1748年)には通信使正使の洪啓禧が、このすぐれた展望の客殿に「対潮楼」という名をつけたと言われている。(『潮流と向かい合う楼閣』 というほどの意)

「いろは丸事件」をめぐる海援隊と紀州藩の談判は、魚屋萬蔵宅のほかここ対潮楼でも行われた。
(「いろは丸事件」については、→いろは丸展示館

PHOTO

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 (城郭を思わせる福禅寺・対潮楼の石垣。そのふもとにあるのは「むろの木歌碑」。万葉歌人・大伴旅人が亡き妻をしのんで詠んだ歌が刻まれている)

 (境内にある説明板)

 (福禅寺本堂)

 (福禅寺境内から仙酔島をのぞむ)

 (仙酔島への渡船乗り場)

 (朝鮮通信使が対潮楼と名付けた福禅寺客殿)

 (朝鮮通信使が「日東第一形勝」と賞賛し、頼山陽が「山紫水明」と表現した対潮楼。広々とした客殿を海風が心地よく吹き抜ける)