鞆の浦

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「太田家住宅」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

【保命酒】
「太田家」というのは明治に入ってから太田家が受け継いだ後の名称で、もともとは保命酒の創始者である中村吉兵衛が藩に願い出て保命酒をここで独占的に製造販売を行い、「保命酒屋(中村家)」と呼ばれていた。

明治になって専売権を失うと、保命酒製造業者が多数現れ、1901年(明治34年)に太田家は保命酒の製造を終了することになった。本来の保命酒は13種類の生薬を使ってつくられていたらしいが、中村家では製造法が門外不出となっていたため、現在の保命酒は当時のものと同じではない(餅米を主原料とし、うるち米、焼酎のほか16種類の漢方薬で醸造されている)

江戸期にはオランダの外交官や朝鮮通信使、文人の頼山陽、幕末には三条実美らも鞆の浦に立ち寄るたび保命酒を味わったという。

【鞆七卿落遺蹟】
「七卿」とは、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で京都を追われた三条実美ら尊王攘夷派7人の公家のこと。三条実美は中村家(太田家住宅)に3度立ち寄っている。一度目は、八月十八日の政変が起きて長州藩に落ちるときである。

二度目は、翌元治元年(1864年)7月に再び京都を目指したとき。実美らは7月18日に中村家にはいって2泊し、20日に鞆を出航して京都を目指したが、実は19日に長州軍は禁門の変で大敗していたのだった。敗戦の報を多度津で聞いた実美ら一行は鞆の浦に戻り、またもや長州へと落ちのびる旅となった。

広島県では太田家住宅を「鞆七卿落遺蹟」として史跡指定している。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 ((現在の鞆酒造・)保命酒屋から港寄りに太田家住宅の蔵が続いている)

 (道の右側にある案内板)

 (太田家住宅の入口。左側の建物は別邸(朝宗亭))

 

 

 

 (内部の客室(大広間))

 (三条実美らの七卿落ちについて解説されている)