下関(関門地区)

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「白石正一郎宅跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

白石正一郎は文化9年(1812年)、馬関の荷受問屋小倉屋の長男として生まれた。白石家に滞在した鈴木重胤(すずきしげたね)から国学を学び、尊皇思想に傾倒して以降、尊攘派の志士たちを損得抜きで支援した。その人数はざっと400人にもおよび、少しでも名のある志士のなかで、白石正一郎の世話にならなかった者はいなかったという。

西郷隆盛も白石家を訪れ、互いにその人物を認めて昵懇の間柄となり、白石家は薩摩藩の御用達となった。また坂本龍馬や中岡慎太郎にとっても白石正一郎宅は下関での重要な拠点だった。薩長同盟の素地は商人である正一郎が少しずつ醸成していったといっても過言ではない。各地の志士が立ち寄る白石家は一大情報集積所となり、会談場所となった。

文久3年5月、長州藩は外国船を砲撃した後に米仏からの報復攻撃で手痛い敗北を喫し、藩の軍事力の脆弱さを痛感した。そして防衛力強化の責任者に高杉晋作を指名し、高杉は身分の別によらない奇兵隊のアイデアを具申して承認された。

しかし、藩がその設立を主導したのでは結局は従来型の藩兵と同様になってしまう。強い軍隊を作るためには、まったく新しい組織と運営方法をとらなければならない。そう考えた高杉は白石正一郎に奇兵隊設立の援助を打診した。

このとき52歳の正一郎は、自分の歳の半分にも達しない若者のその容易ならざる人物を見抜いて、白石家の財産も自分の命もすべてを高杉に賭けるとまで決意したという。さっそくまず自らが奇兵隊に入隊し、募兵活動を始め、奇兵隊の屯所として白石家の屋敷を提供した。またその後、倒幕運動の中心となって活躍する高杉を陰に陽に支え続けた。

白石正一郎は、幕末期の著名な志士たちに隠れて名こそ目立たないが、まさしく明治維新の最大の功労者の一人といってもいいだろう。しかし家財をすべて倒幕運動に捧げてしまったために白石家は破産し、維新後は赤間宮の宮司となってひっそりと暮らしたという。

PHOTO

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 (下関駅のガードをくぐり国道191号線を少し北に進んだところに白石正一郎宅跡がある)

 (生け垣と碑は中国電力の敷地内にある)

 (のちに幕府軍を粉砕し、維新への扉を押し開いた奇兵隊はこの地で結成された)

 

 (道路の反対側より)