下関(関門地区)

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「功山寺」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

文久時代(1861年〜63年ころ)の長州藩は、尊皇攘夷の機運に乗って朝廷を動かし、幕府を牛耳って日の出の勢いがあった。しかし、やがて長州藩は、その独走的な動きを警戒され、幕府や薩摩藩の手によって京都を追い出された(八月十八日の政変)。さらに元治元年(1864年)には、前年の攘夷行動の報復として下関に来襲した四カ国連合艦隊に惨敗して攘夷運動をくじかれ、京都では禁門の変で幕府側の勢力と交戦して敗れ、御所に攻め入ったことで朝敵とされたばかりか、幕府による長州征討まで行われることとなってしまった。

孤立無援となった長州藩の内部では、椋梨藤太(むくなしとうた)らの保守派が台頭して禁門の変の責任者らを処罰、幕府への恭順を誓った。こうした局面をへて一時衰えかけていた幕府の勢いは盛り返し、幕府中心の時代はまだまだ続くという認識を世間に再確認させることとなった。 かつての攘夷派志士たちは姿をかくし息をひそめ、世はまさに佐幕一色に塗り替えられようとしていた。多くの者が「やはり天下の公儀・徳川幕府を倒すというのは所詮無理なことなのだ」と考えるようになった。

こうした、尊攘派にとっては絶望的な状況のなかで、一時九州に亡命していた高杉晋作は、ひとり決死のクーデターを企んでいた。このままでは長州藩は滅亡してしまうとの強い危機感を抱き、下関周辺でかつての同士(奇兵隊や諸隊の長たち)に、保守化した藩政府)を倒すための決起に加わるよう説得を続けた。が、藩政府やその向こうに控える幕府という巨大な組織に立ち向かうという高杉の無謀な企てに賛同する隊はほとんどなく、当時奇兵隊を束ねていた軍監・山県狂介(やまがたきょうすけ)もまったく消極的で、最終的に高杉の挙兵に賛同し集まった人数は、伊藤俊輔率いる力士隊30人と、石川小五郎率いる遊撃隊50人ばかりだった。高杉はたった80人で長州藩政府およびその周りを取り巻いている巨大な幕府勢と戦おうとしたのである。

まったく絶望的な人数ではあったが、高杉には勝算があった。確かに世間の外見は佐幕化してしまったが、大きな流れは幕府体制の終焉に向かっている。もし自分が下関1箇所でも蜂起に成功すれば、現在の日和見勢は目を覚まし必ず自分たちの側についてくるだろう。

たとえ一人になっても戦おうと考えていた高杉は、決死の覚悟の80人と共にクーデターの敢行を決定。その出陣式を兼ねて当時長府・功山寺に宿泊していた三条実美(さんじょうさねとみ)ら、京都を追われた攘夷派の公家(五卿)を訪ねた。高杉は雪に包まれた師走の功山寺境内で公家たちに出陣の挨拶を行ったあと、「これより長州男児の腕前をお目に懸けまする」と言い残し、馬関(下関)へ向け、騎馬で山門を後にした。

公家たちを含めほとんどの人間は、高杉の無謀な決起が成功するとは考えていなかった。が、この戦略の天才はわずかな人数を駆使して下関の奉行所を抑え、さらに三田尻(防府)の海軍を奪って一気に勢力を拡大させ、(高杉の予想通り)その勢いを見てようやく参入してきた奇兵隊などの諸隊とともに反政府軍を大田・絵堂(おおだ えどう)の戦いで粉砕し、ついに藩の政権を奪い返してしまった。

再び尊王攘夷派が政権を担った長州藩は、今度は外国との結びつきを強め、幕府を倒すために全力をあげることになる。

PHOTO

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 (総門の傍らに建つ「高杉晋作回天義挙之所」碑。功山寺は戦国時代、最後の大内家当主・大内義長が毛利軍に攻められて自刃した地でもある)

 (江戸中期の安永年間に築かれた山門。高杉晋作もこの門をくぐって出陣した)

 (境内の案内板)

 (山門をくぐって境内右手にある高杉晋作回天義挙像)

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