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赤間神宮

(あかまじんぐう)

下関市阿弥陀寺町(あみだいじちょう)

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赤間神宮は、源平合戦の「壇ノ浦の戦い」で、平家一門と運命を共にした幼帝・安徳天皇を祀る旧官幣大社。明治時代に神社になる前は、阿弥陀寺という寺院だった。

文久3年(1863年)、豪商・白石正一郎宅で結成された奇兵隊は、隊士の増員により屯所をこの阿弥陀寺に移した。白石正一郎は志士たちを経済的に支えた功労者だったが、倒幕運動に家財を投じたため商家白石家は没落。正一郎は維新後、赤間神宮の宮司として余生を過ごした。

例年5月2日から3日間、入水した安徳天皇を偲ぶ「先帝祭」が開かれ、絢爛な上臈道中や武者行列などが繰り広げられる。

MAP

「赤間神宮」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY & DETAILS

京の都を追われた平氏一門は、追討を続ける源氏に対し、長門国・赤間関(あかまがせき)(現在の下関市)壇ノ浦(だんのうら)で最後の戦いをいどんだ。ときに元暦2年(1185年)3月24日、正午前後に始まった海上の合戦は最初平氏方が有利だったが、その後潮流の変化や兵の寝返りなどによって、源氏軍が平氏軍を圧倒し始めた。

平氏は都落ちのときに、幼い安徳(あんとく)天皇と三種の神器を道連れにしていた。平清盛が娘・徳子を高倉天皇にとつがせ、生まれた子が安徳天皇である。安徳天皇は清盛の孫として、平氏一門をますます繁栄させる象徴的な存在となるはずだった。

やがて安徳天皇の舟にも源氏の軍勢がせまり、天皇の祖母であり清盛の妻でもあった二位尼(にいのあま) (時子)は、もはやこれまでと覚悟を決め、幼い天皇の手を取った。「どこへ連れて行くのか」と問う天皇に対し、「この世はつらくままならぬもの、波の下にも都がございます。そこにお連れいたしましょう」と言い、幼帝を抱いて壇ノ浦の海に身を投げた。

わずか8歳で海中の都に旅立った安徳天皇は、遺骸を引き揚げられ 阿弥陀寺(あみだじ)に埋葬された。のち明治時代になって神道政策のもとに全国的に神仏分離が行われ、阿弥陀寺は明治8年(1875年)、赤間宮として神社に生まれ変わった。のち昭和15年(1940年)、官幣大社の社格を得るとともに赤間神宮に改称された。

赤間神宮の社殿西側には、安徳天皇が埋葬されている阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ) 、また平家一門を祀る七盛塚や、耳なし芳一の木像が祀られている芳一堂がある。

PHOTO

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 (赤間神宮のシンボル、水天門。昭憲皇太后宮が、幼くして崩御した安徳天皇を偲んで奉じられた「いまも猶袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこのみゆき思へば」の御歌が機縁となり、竜宮城をイメージしたつくりとなっている)

 (水天門から本殿(大安殿)を見通す)

 (大安殿)

 (大安殿)

 (神宮由緒)

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