長崎

Google Map

「大浦けい(大浦慶)居宅跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

大浦慶は、文政11年(1828年)の生まれであるから、坂本龍馬の8歳上ということになる。長崎の油商である大浦家の一人娘として育ったが、慶の子供のころから家の商売はすでに下り坂。跡取りにと迎えた婿養子もすでに亡く、加えて町の大火に巻き込まれて大損害を受け、大浦家は瀕死の状態にあった。

16歳の慶はなんとかして家を建て直そうと、茶の輸出を試みた。ちょうどペリーが初めて来航した嘉永6年(1853年)の年、彼女は嬉野(うれしの)茶の見本を、出島のオランダ人・テキストルに託して海外への販売を期待したのだ。
これが大当たりし、3年後、イギリス商人・オールトから巨額の注文を受け、これをきっかけにして慶は長崎の一大貿易商にのし上がった。そして、ちょうど徳川幕府が終焉を迎えるころまで大浦家は最盛期を誇った。
彼女は坂本龍馬らの志士たちをも支援し、亀山社中(のち海援隊)の面々も慶の屋敷によく出入りしていたという。またイギリス商人のトーマス・グラバーや大富豪・小曽根乾堂(こそねけんどう)らとも親密な交流があった。

しかし明治維新を迎えるころから、長崎からの茶の輸出は次第にふるわなくなってきた。新たな商売の方向性を模索していた慶だったが、明治4年(1871年)に起こった詐欺事件に巻き込まれ、一気に没落への道をたどってしまう。
これは商売に失敗した遠山という熊本藩士がその穴埋めをするため、架空の輸出取引を目論んだものだった。「熊本産煙草をオールト商会に売りたいので、その保証人になってくれ」と頼まれた慶はいったん断るが、巧妙に仕掛けられた罠にはまり、ついに保証人を引き受けてしまう。やがて、オールト商会から「3000両の手付け金を払っても品物が来ない」と訴えられ、だまされた慶も遠山を訴えたが、出された判決は不当なもので、結果、慶は多額の損害賠償を負わされることになった(遠山事件)。

慶は借金を清算したあと、明治17年(1884年)に病死。跡取りのいない大浦家も彼女とともについえた。死の直前に、明治政府から「茶貿易の先駆者」として褒賞と金20円を贈られたのが唯一の救いと言えるかもしれない。