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浦上天主堂

(うらかみてんしゅどう)

長崎市本尾町

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浦上天主堂は、長崎・浦上地区のカトリック信者たちが明治期に建設を始め、大正3年(1914年)に完成させた。

昭和20年(1945年)8月9日に原爆が投下され、爆心地からわずか500メートルほどの浦上天主堂は、壊滅的な被害を受けた。現在の天主堂は、昭和34年(1959年)に以前の天主堂のデザインを踏襲して再建されたもの。

MAP

「浦上天主堂」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY & DETAILS

戦国時代後半の天正12年(1584年)にキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)が、浦上の地をイエズス会に寄進した。これにより浦上には多数のキリシタンが生まれることになった。彼らは江戸の禁教時代には隠れキリシタンとして迫害に耐えながら信仰を受けついでいったが、幕末期、日本が開国した後の慶応元年(1865年)に、フランス人が礼拝のために建てた大浦天主堂が完成すると、浦上の隠れキリシタンたちは役人の目をしのんで大浦天主堂を訪れるようになった。

大浦天主堂のプティジャン神父は、長崎の地に多くの日本人カトリック教徒が隠れキリシタンとして生き延びてきたことに驚き、彼らを信徒として温かく迎え入れ、洗礼や教義の指導を行うようになった。

こうして「隠れキリシタン」が顕在化したことで、当然役人の詮議が厳しくなり、手入れを受けて処罰される者も多数にのぼった。しかしこうした迫害に対して外国領事たちが奉行所に抗議したことで、幕府も旧来のように問答無用でキリシタンを厳罰に処すことはできなかった。

幕府がキリシタンの扱いに苦慮するうちに、大政奉還と王政復古で幕府は瓦解。しかし新たにできた明治新政府も、当初は幕府の政策を受けつぎ、日本人のキリスト教信教を認めることはしなかった。天皇中心の国家として日本をまとめるため、祭政一致(祭=この場合国家神道)の原則を打ち立てたからである。

こうして浦上のキリスト教徒3400人は流罪となり、津和野や和歌山などの全国21藩に強制収容され、各地で受難の日々を送った。そして明治6年(1873年)にようやく禁制が解かれ、浦上の地に帰ってきた信徒たちの手によって、浦上天主堂が築かれたのである。

PHOTO

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 (原爆投下地点から至近距離にあった天主堂は瞬時にして壊滅し、中にいた司祭と信徒たちは全員死亡した。現在の天主堂は旧天主堂跡に、当時と同様のロマネスク調で建設された。もとの「浦上天主堂遺壁」は平和公園内に保存されている)

 (撮影時は工事中)