長崎

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「高島秋帆旧宅」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

1840年、清国が英国にアヘン戦争で敗れると、秋帆はますます危機感を抱き、幕府に意見書を出して、海防の充実を訴えた。翌天保12年(1841年)に徳丸ヶ原(とくまるがはら)(現在の東京都板橋区高島平)で、幕府役人立ち会いのもとで、砲術のデモを実施。幕府に専門家として認められ、秋帆は幕臣の江川英龍(えがわひでたつ)(太郎左衛門)らの教授役となる。(※高島平(たかしまだいら)の地名は、高島秋帆からつけられた)

ところが、洋式軍備を推し進める秋帆を快く思わなかった保守派の鳥居耀蔵(とりいようぞう)の手によって、秋帆は冤罪をこうむり投獄されてしまう。のちにペリーが来航して、内外の情勢が急変したことにより出獄して講武所師範となり、ふたたび幕府の砲術指南役に復帰した。

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