京都

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「横井小楠殉節地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

横井小楠といえば福井藩主・松平春嶽のアドバイザーとして著名であるが、肥後熊本の藩士であり、福井藩から招きを受けた都度、福井もしくは江戸の福井藩邸を訪れている。(同じく春嶽を補佐して国事に奔走し安政の大獄で刑死した橋本左内は福井藩士である)

横井小楠は文化6年(1809年)熊本城下に生まれ、藩校時習館に入学。江戸に遊学中、藤田東湖らと交わった。伝統的な学問に飽きたらず、時勢にあった改革を志す実学党をつくり、私塾・小楠堂を創設した。この私塾に福井藩士が入門したことがきっかけとなり、松平春嶽が小楠を福井藩に招聘しようと熊本藩に働きかけることとなった。

熊本藩は開明的思想の持ち主である小楠を警戒して最初は断ったが、春嶽の再三の要請によりこれを許し、小楠は安政5年(1858年)に福井に入り、藩校明道館で講義を行った。また文久年間になると松平春嶽(文久2年に幕府の政事総裁職に就任)のもとで幕政改革への提言を行うなどした。

横井小楠は当時の志士たちに極めて大きな思想的影響を与えた人物である。勝海舟は、天下にある「恐ろしい人物」として、西郷隆盛と横井小楠の2者をあげた。坂本龍馬の「船中八策」は小楠の「国是七条」などを元にしているとされる。また、小楠の指導を受けた福井藩士の三岡八郎(由利公正)は明治新政府が掲げた「五箇条の御誓文」の起草者のひとりとなった。

維新後、新政府に招かれ参与に就任したが、明治2年(1869年)1月5日、御所への参内を終えた小楠は寺町丸太町を下ったあたりで、開国政策に不満をもつ十津川郷士ら6名に襲われ落命した。享年61。

PHOTO

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 (横井小楠は明治2年の正月明けに御所からの帰り道にこの付近で刺客に襲われ、命を落とした。寺町通りの舗道上に碑が立つ。前方で交差する道は丸太町通り。御所の東南角にあたる地点であり、刺客たちは御所の傍を避けてこのあたりで待ち伏せしていたのだろうか)

 (道の反対側から)