京都

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「皇女和宮生誕の地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

天皇の娘(皇女)として生まれながら、時代が生んだ運命の潮流に呑みこまれ、武家の徳川家(14代将軍家茂)に嫁いだ和宮。その和宮が生まれたのが、母・観行院(橋本経子)の実家である。

宮は6歳のとき、代々親王家をつとめる由緒ある有栖川家の皇子・有栖川宮熾仁親王と婚約した。もし平穏な世ならば、宮は生まれ育った京の都で、皇族同士、雅びで穏やかな暮らしを全うすることができたはずだ。
しかし、外国からの圧力にその屋台骨を揺さぶられていた幕府は、朝廷の威を借りて自家の延命をはかる公武合体策を進め、その一環として、朝廷と幕府の縁組みを計ってきた。

白羽の矢を立てられた和宮は、当初強くこれを拒んだが、兄・孝明天皇の強い意向によってついに徳川家への降嫁を承諾した。長らく国内の政権から遠ざかってきた朝廷は、この機に発言力を強め、攘夷(外国勢力の排斥)実行を幕府に約させようと考えたのである。

文久元年(1861年)10月20日、16歳の花嫁・内親王和宮の行列が京の都を出発。沿道の警備5000人、行列本体6000人という荘重な花嫁行列は50キロメートルにもおよび、約1カ月をかけて中山道を進み江戸入りした。
文久2年(1862年)2月、和宮と将軍家茂の婚儀が執り行われる。嫁・姑の関係であった、前将軍徳川家定の正室・天璋院篤姫とは、さまざまな確執があったが、のち和解した。

慶応元年(1965年)閏5月、夫の家茂は、第二次長州征伐の総大将として出立したが、やがて大坂城で病没。和宮は落飾し名を静寛院宮(せいかんいんのみや)と改めた。わずか4年余りの結婚生活だった。

薩長軍による王政復古のクーデターが起き、戊辰戦争が始まると、官軍優位の状況のなかで、徳川家の存続と前将軍・慶喜の助命嘆願のため、朝廷や官軍司令官に対し、手紙を書く。さらに江戸城明け渡しの決定にさいし、旧幕臣の暴発を抑えるため、「徳川家のために今は恭順すべき時」と説いた。政略結婚の犠牲となった薄幸の皇女が嫁ぎ先のために尽力した姿は、幕末史の中でもひときわ強い印象を後世に残している。

明治維新後、一度京都に戻ったが再び江戸に居住。明治10年(1877年)9月、脚気の治療のため訪れていた箱根・塔ノ沢温泉で亡くなった。享年32。

PHOTO

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 (京都御所と迎賓館の間に、和宮が生まれた橋本家跡の碑が立っている)

 

 (説明板)

 

 (碑の後側から。対面は御所(禁裏)の外塀)