京都

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「油小路の変」発生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は水戸学を学んだ勤王志士。新選組中途加入組でありながら、文武にすぐれ弁舌も鮮やかな伊東は、若い隊士たちの心をつかんではなさなくなった。やがて伊東は、佐幕色を強めていく新選組から離反。自分に心酔する隊士たちを引き抜いて、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成する。

新選組局長・近藤勇は、御陵衛士に送り込んだスパイである斎藤一から、伊東が新選組屯所の襲撃を計画しているとの報告を受け、伊東の殺害を決意。慶応3年(1867年)11月18日、七条にある妾宅に伊東を誘ってしこたま酒を飲ませた。

伊東の帰宅途中を狙って、隊士・大石鍬次郎(おおいしくわじろう)らが襲撃。伊東は「奸賊輩(かんぞくばら)!」と叫んで絶命したという。

伊東の遺骸は七条油小路の辻(写真の場所)に放置された。遺骸を引き取りに来る仲間を一網打尽にするためである。はたして予想通り藤堂平助 (とうどうへいすけ)らが駕籠とともに現れ、待ち伏せていた永倉新八 (ながくらしんぱち)・原田左之助(はらださのすけ)らがこれを迎えうつ。

近藤は「まだ若く将来有望な藤堂は生かしておけ」と命じていたと言われるが、その命が行き届かない隊士の最後の一刀で藤堂は絶命。ほか伊東配下の服部武雄(はっとりたけお)・毛内有之助(もうないありのすけ)も死亡した。これら一連の事件を「油小路(あぶらのこうじ)の変」という。

PHOTO

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 (伊東甲子太郎の遺骸はここ七条油小路(しちじょうあぶらのこうじ)の辻(広い方が七条通り・右が東)に放置され、遺骸を引き取りに来た藤堂平助らが、待ち伏せていた新選組に斬殺される。伊東が襲われたのはここから少し南の本光寺(ほんこうじ)近くの木津屋橋(きづやばし)通りといわれる)

 (七条油小路の辻を北側から。油小路を奥行き方向に100メートルほど行くと、本光寺があり、門前に伊東甲子太郎殉難の碑がある)