京都

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「八木邸」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

文久3年(1863年)2月8日に江戸を出立した浪士組230余名は、中山道を通り、同月23日に京都の壬生村に入った。ここで浪士たちは寺院や民家に分宿。近藤勇、土方歳三、芹沢鴨(せりざわかも)、新見錦(にいみにしき)らは八木邸に投宿した。

もともと浪士組とは、上洛する将軍警護の役を行うために急遽結成された組織だったが、これを発案した清河八郎(きよかわはちろう)は京都に着くなり、浪士組を急進的な尊皇攘夷活動のために利用しようと、朝廷に建白書を提出し、これが受理された。そして江戸に帰って尊攘運動を繰り広げようと浪士たちをまとめていたが、近藤や芹沢はこれに反対し、京都に残留することに決めた。彼らは京都守護職の任にあった会津藩の預かりとなり「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を名乗ったのである。

この壬生浪士組がのちの新選組となる。しだいに新規隊士も増え手狭になると、近くの前川邸も屯所として使うようになった。

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 (浪士組から分かれてこの八木邸に留まったのは、芹澤鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、野口健司、平山五郎、平間重助(ひらまじゅうすけ)の13名。当所リーダー格だった芹沢と新見は、不品行のためその後それぞれ暗殺、切腹によって粛正された。文久3年(1863年)八月十八日の政変後は、近藤を局長、土方を副長とした江戸の試衛館派を中心とした新選組が誕生する)

 (門前の説明板)

 (剣術稽古に疲れた新選組隊士たちが腰をおろして休んだという「隊士腰掛けの石」。もとは道場近くにあった)

 (屋敷は改修されているが、斬り合いのときに血痕がついた天井板などは当時のままという)