京都

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HISTORY

京都がはじめて天皇の御座所である「都」となったのは、桓武天皇の治世である延暦13年(794年)である。そのときの御所は現在の地より西に離れたところにあり、南北朝の合一後から現在の場所になった。

孝明天皇

孝明(こうめい)天皇は、天保2年(1831年)6月14日、仁孝(にんこう)天皇の第四皇子として誕生した。弘化3年(1846年)1月26日に仁孝天皇が崩御したことにより、2月13日に践祚(天皇の位につくこと)した。

孝明天皇は「外国嫌い」であり、攘夷思想をつよく持ち、幕府の開国政策に反対し続けてきた第一人者として知られているが、だからといって決して「反幕府主義者」ではなく、これまでの日本の伝統と安寧を守りたいという一心から開国に反対したのだった。 天皇はむしろ、強い幕府でありつづけ外国の侵略を防いでほしいと願っていたのである。

嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、日本の開国を求めてアメリカ大統領からの国書を幕府に投じたあと、幕府は以後の外交方針決定に苦慮し、その開府以来はじめて「天下の公論」に耳を傾けようとした。そして翌年「日米和親条約」を結んで、開国の第一歩を踏み出した。

朝廷は、和親条約の締結については別段の異議もなく幕府の決断を追認したが、その後「日米修好通商条約」には明確に反対の立場をとった。

和親条約では、単に寄港した外国船への薪水等の供与をするだけで、開かれる港も下田、箱館(函館)という京都から遠い場所であったため朝廷にとってはさほど不安材料とはならなかった。しかし通商条約を結べば本格的に外国と交流することとなり、国内に大きな混乱がもたらされることが懸念されたのである(実際その通りになった)。

幕府から通商条約の勅許を求められた孝明天皇は、非常に大きな責任と重圧を感じていた。勅許を与えることで日本が鎖国から開国へ転じ、その結果重大な悪影響が出たりすれば皇祖に申し訳ないという気持ちがある一方で、日本が条約締結を拒否し外国の接近を拒めば、清国の場合と同様、戦争になる可能性があることも理解していた。

28歳の天皇は寝食もままならないほど苦悩の日々を送り、これまでになく朝廷内の上下の公家たちの声にも耳を傾けようとした。

そうしたなかで、天皇が長年信頼を置き、最大の実力者でもあった前関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)は開国を容認する立場を取っており、朝廷としては憂慮を示しながらも最終的には幕府の判断に委ねるという態度で固まりつつあった。

ところが、これに反対する岩倉具視など中下層の攘夷派公家たちが集団で提訴するなど(廷臣八十八卿列参事件)揺れ動き、結局朝廷は、条約の勅許を求めて上京してきた老中首座・堀田正睦(ほったまさよし)に対し、事実上勅許を拒否するという回答を与えたのである。

しかしこの直後、堀田を斥けて幕府大老となった井伊直弼(いいなおすけ)は、世界情勢をかんがみて開国通商はやむなしと判断し、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印に踏み切った。

この報を受けた孝明天皇は激怒した。そして幕府が無断調印した事実を譴責し、内容を問いただし、以後幕府は諸藩と協同して公武合体と攘夷実行を推し進めるよう命ずる勅書を水戸家に下したのだった(戊午の密勅(ぼごのみっちょく))。

すると今度はこのことが井伊直弼の怒りを買い、「安政の大獄」の引き金をひくこととなった。幕府将軍家の臣である水戸家へ、朝廷から直接勅書が下されるということは、幕藩体制を根底から否定されることでもあり、幕府としては到底容認できなかったのである。

ところが井伊直弼は、弾圧政策に反発した水戸浪士たちの手により桜田門外の変で横死する。井伊が討たれたあとは、幕府も穏健政策に進路を変え、朝廷との公武合体が推進されるようになった。

この後、孝明天皇は一貫して開国に反対の立場を守った。天皇は開国することで国内の平和や秩序が乱され、外国人によって伝統と文化が破壊されることを何よりも怖れていた。日本国の現状維持を願う真に保守的な人だったといえるだろう。

天皇が外国を排斥する「攘夷」を指向していたのは平和を求めるゆえであり、過激な攘夷運動によって混乱が生じる事態は望むところではなかった。したがって、禁門の変を起こした尊皇攘夷の首魁である長州藩を朝敵と断じ、一橋(徳川)慶喜を中心とした一会桑政権を頼みとした。尊皇攘夷の志士たちによって担ぎ上げられていた天皇はじつは佐幕主義者だったといえる。

その孝明天皇は、徳川慶喜が15代将軍となった直後の慶応2年(1867年)12月25日に悪性の天然痘で亡くなった。天皇の崩御があまりに急で不自然であったため、天皇は(おそらく倒幕推進派の陰謀によって)毒殺されたのではないかという説もある。

たしかに、保守的立場をつらぬき徳川慶喜を応援していた天皇は、倒幕を邪魔する大きな障害として見られていたことも確かである。もし仮に孝明天皇が最初から幕府の開国政策に賛同していれば、幕末の様相はまったく別のものになったことは間違いない。幕末維新の革命のエネルギーはまさに「尊皇攘夷」から生み出されたものだからである。

その意味では、(天皇自身にはそのような意識はなかったであろうが)孝明天皇こそ世に革命の原動力を与えた最も大きな存在だったということができるかもしれない。

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 (御所の正門となる建礼門)

 (建礼門)

 (御所の西南角のところにある「清水谷家の椋」。1864年の禁門の変のときに長州藩士・来島又兵衛がこの木のあたりで討死したと伝えられている)

 (御苑内の説明板)