高知

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「永福寺」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

土佐藩では、江戸期になって入府した山内家の家臣たちが、旧支配者である長宗我部(ちょうそかべ)家の遺臣たちを差別待遇で扱っていた。いわゆる上士と下士(郷士)の対立が長く続いていた。

文久元年(1861年)3月に起きた井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん) は、そのひとつの現れである。永福寺門前で、酒に酔った上士が通りかかった下士に因縁をつけ、無礼討ちにしてしまった。知らせを受けた下士の兄が、急いでかけつけ、弟の仇討ちとしてその場にいた上士2名を斬殺。

この事件により、高知城下にある上士・下士は全面闘争になりかけた。このとき下士側の代表格として矢面にたち言い分を主張し、上士側が要求した当事者の引き渡しをこばんだのが坂本龍馬であったという。

しかし、大規模な抗争が本格化すれば藩とりつぶしのおそれもあった。上士側では吉田東洋が、下士側では武市半平太らが事態の収拾をのぞみ、結局、事件の当事者の下士は切腹して果てた。当然ながら藩の裁定は上士側に甘かった。

この事件で、土佐藩の下士たちは不満をあらわにし、半年後に武市半平太が結成した土佐勤王党が下士たちを取り込んで急速に膨張する一因となった。なお、事件で殺害された上士2名は、 山田広衛(やまだひろえ)と益永繁斎(ますながはんさい)。彼らに最初に斬られた下士は、中平忠次郎(なかひらちゅうじろう)である。上士の山田・益永を斬った忠次郎の兄は池田寅之進(いけだとらのしん)で、この寅之進と、現場から知らせに走って寅之進と行動をともにした宇賀喜久馬(うがきくま)が切腹した。

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