高知

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「武市半平太邸跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

武市半平太は、現在の高知市街の南にあった吹井村(桂浜の対岸にあたる)の出身で、22歳のときに高知市城下に転居してきた。幼少のころから剣術に長けていた半平太は、この地で妻の叔父である槍の名手・島村寿之助とともに道場を開いた。

半平太の剣の腕と、爽やかで清廉実直な人格に惹かれた若者たちが、各地から集まり門弟となった。そのなかには、のちに坂本龍馬とともに薩長同盟の立役者となった中岡慎太郎や、半平太のために政敵を暗殺する役を担った岡田以蔵もふくまれていた。

半平太が剣術を教えはじめたころにペリーが来航(1853年)し、日本国中が騒擾の風雲につつみ込まれていく。半平太は国を守るためには徹底的な攘夷(外国人排斥)しかないという信念のもとに、江戸滞在中に「土佐勤王党」を結成した。のち、土佐勤王党は土佐の郷士や村役人など192人の大所帯となり、坂本龍馬・平井収二郎・中岡慎太郎・間崎哲馬(まさきてつま)・吉村虎太郎・岡田以蔵らがメンバーとして参加した。

半平太自身は郷士格であり、身分差別の厳しい土佐藩での発言権はなきに等しかったが、かれの政治手腕は非常にたくみで、自説に同調する土佐藩の上士たちを取り込んで、藩政を動かし、やがては朝廷の攘夷派公家たちと結びついて、幕府をゆるがす攘夷運動の中心的な人物のひとりにまでのし上がった。

しかし、半平太らの暴走を危険視した土佐の前藩主・山内容堂は、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で攘夷運動総本山の長州藩が失脚したのをきっかけに、メンバーを片っ端から投獄、処刑するなど、土佐勤王党の大弾圧を始めた。半平太も文久3年9月に投獄され、1年半のちに切腹して果てた。