鹿児島

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「調所広郷像」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

調所広郷は安永5年(1776年)生まれで、薩摩藩の財政再建に貢献した家老。通称は笑左衛門(しょうざえもん)。第8代藩主の島津重豪(しげひで)に認められ、重豪から斉興(なりおき)(斉彬、久光の父)までの時代に薩摩藩の財政を担当した。

当時薩摩藩は島津重豪の、開明的ではあったが野放図な藩政によって、500万両という途方もない借金をかかえ、経済的に破綻状態にあった。財政再建を命じられた調所は、商人たちからの借金を250年の無利子分割払いで返済するという、事実上の借金踏み倒しを宣言。同時に清国との密貿易を行って一部商人を儲けさせることで、彼らの不満を解消した(また、借金の分割払いのほうも、維新後の廃藩置県までは毎年返済された)。 こうした荒療治によって藩財政は好転し、逆に大量の蓄財が生み出された。

やがて斉興の後継者として、斉彬(なりあきら)とその異母弟の久光(ひさみつ)が藩主の座を争うようになる。斉彬こそは嫡男であり当然跡継ぎの資格があるのだが、久光の生母である側室・お由羅(ゆら) の方が、自分の子である久光を擁立し、斉興もお由羅・久光の味方となった。

この世継ぎ争いは「お由羅騒動」という一大お家騒動に発展し、藩内は斉彬派と久光派に二分され、血なまぐさい抗争が発生した。
家老・調所は、現主君に従って久光派に属した。斉彬の開明的な方針は曾祖父の重豪に似ており、もし斉彬が藩主となれば、またもや藩は借金漬けになるのではないかという危惧もあったからだ。

斉彬は、調所が行っている密貿易の件を、ときの幕府老中・阿部正弘に打ち明け、阿部は調所を呼んできびしく譴責した。調所はそのあと江戸の薩摩藩邸で急死。原因は服毒自殺とされている。その2年後に斉彬は薩摩藩主の座に就いた。

当時、調所は、お由羅騒動で幕末の英君・島津斉彬を陥れ、領民に苛政を施した悪人とされていたが、調所の財政再建がなければ幕末の薩摩藩の活躍も不可能であり、責任を一身に背負って自害した調所の生き様は評価されている。

PHOTO

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 (天保山公園の一角にある調所広郷の像(中央奥)。右側に甲突川が流れる)

 

 (道路をまっすぐ進むと、天保山砲台跡へ)