鹿児島

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「東郷平八郎銅像」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

東郷平八郎は弘化4年(1848年)加治屋町の薩摩藩士の家に生まれた。薩英戦争、戊辰戦争に参加し、維新後は英国留学して海軍士官としての経験を積んだ。明治27年(1894年)日清戦争では「浪速」艦長となり、戦いの火ぶたを切った豊島沖(ほうとうおき)海戦で、清国兵輸送中の高陞(こうしょう)号を国際法に則って撃沈した。

東郷の名を一躍世界に知らしめたのが、日露戦争の日本海海戦である。明治34年(1901年)舞鶴鎮守府初代司令長官となった東郷は、すでに退役を待つ身といってもよかったが、日露の開戦間近になって、同郷の海軍大臣・山本権兵衛は「ロシアをやれるのは東郷しかいない」と、山本の盟友・ 日高壮之丞(ひだかそうのじょう)を押しのけて、東郷を連合艦隊司令長官に大抜擢した。

東郷に課せられた使命は、バルト海から回航してくるロシア帝国の大艦隊を完璧に葬り去ることという、限りなく巨大なものだった。これに失敗すれば、満州に展開中の日本陸軍は補給路を断たれて枯渇し、それはすなわち日本の敗北、ひいてはロシアの属州化への道をたどることを意味した。

そして、明治38年(1905年)5月27日、旗艦「三笠」に乗艦した東郷率いる日本海軍の連合艦隊は、ロシア太平洋艦隊(バルチック艦隊)を対馬沖で迎撃。参謀・秋山真之(あきやまさねゆき)の卓越した戦術に支えられて、敵艦隊を完全に壊滅させたのである。

それまで日本の軍事力を二流以下とみなしていた欧米列強は日本の勝利に驚嘆し、イギリスでは東郷平八郎を「東洋のネルソン」などと最大級の賛辞で評した。
ペリーが来航し徳川日本の扉をこじ開けたとき、日本は列強世界から見ればまったく貧しい自給自足の未開の農業国であり、海軍も陸軍も蒸気機関も鉄道も電信も電灯も憲法も政治制度も…その他近代国家の必需品というべきものは何もないに等しい状態だった。それからわずか50年で西洋文明の一角に連なるロシア帝国の艦隊をまるまる破壊するほどの軍事力(国力)を持ち得たというのは、実際驚嘆すべきことだろう。

東郷は日露戦後間もなく現役を退いたが、その後も長きにわたって日本の軍政に関わり、社会的にも大きな影響力を持ち続けた。昭和9年(1934年)没。

PHOTO

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 (多賀山公園に建つ東郷像近くにある「聖将の碑」)

 (東郷平八郎が葬られたのは東京・多磨霊園。ここの墓地には遺髪が納められているという)

 (「東郷元帥の碑」)

 (銅像へのぼる階段が、東郷平八郎の「高み」を表している)

 

 

 (銅像の位置から見た桜島)

 (銅像の位置から見た鹿児島市街)