鹿児島

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「私学校跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

明治6年(1873年)、西郷隆盛は征韓論が政府に取り下げられたために職を辞して下野、鹿児島に帰った。これに応じて、西郷側近の桐野利秋(きりのとしあき)、篠原国幹(しのはらくにもと)ら、薩摩出身の政治家・軍人らも多数が帰国した。

鹿児島では、新政府の急速な改革に異をとなえる不平士族たちをまとめるという目的のもと、西郷派の幹部たちが中心となって、旧鹿児島城内(厩跡)に「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」が設立された。これらの学校は総称的に私学校と呼ばれ、鹿児島城下の士族が教育対象となったが、その実体は名前から想像される「私立学校」ではなく、鹿児島県の予算からも設立資金が拠出された半公立の軍隊学校だった。

鹿児島県令・大山綱良(おおやまつなよし)は、積極的に私学校を支援し、私学校徒たちを官吏に登用。政府への租税納入も拒否し、鹿児島はあたかも日本政府から独立したかのような様相を呈してきた。

政府の鹿児島県に対する警戒や圧力が強まり、「鹿児島征伐」の機運が高まると、私学校徒たちが暴発して政府が管理している火薬庫を襲撃し、西南戦争が始まった(明治10年(1877年)2月)。

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 (国道10号線西側に私学校の跡がある。鶴丸城(鹿児島城)の厩があった場所で、現在は鹿児島県医療センターとなっている)

 

 

 

 (「西南戦争の銃弾跡」碑の近くにある私学校の説明板)