鹿児島

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「薩英戦争記念碑」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

文久2年(1862年)8月21日、江戸から帰国する途中の島津久光一行が神奈川宿の手前の生麦村に差し掛かったとき、その行列を乱した英国人を薩摩藩士が殺傷するという「生麦事件」が発生した。
翌文久3年(1863年)6月22日、英国は薩摩藩への賠償を求めて、横浜から艦船7隻を鹿児島へ派遣し、生麦事件犯人の処罰と賠償金2万5000ポンドを要求する国書を薩摩側に渡した。薩摩藩は協議の結果、英国の要求を拒否することとした。

賠償金の支払いを拒否された英国は、その代償として7月2日に薩摩藩の汽船を拿捕。この実力行使に対し、薩摩藩は天保山砲台から英国艦船へ砲撃を開始、薩英戦争が始まった。

あらかじめ敵襲に備えて訓練を積んでいた薩摩藩は英国に対して善戦した。日本の軍事力をあなどっていた英国側の油断もあって、相当の被害を与えた(人的被害では薩摩側の死者5人に対し英国側は死者11人)が、結果的には西洋文明の圧倒的な力を見せつけられることになった。

砲台の有効射程がせいぜい1キロほどであるのに対し、英国のアームストロング砲は3〜4キロほどもあり、薩摩の砲台のはるか頭上を飛んで、市街地の奥深くに着弾し炸裂した。住民たちはあらかじめ避難していたため、死傷者数は少なかったが、城下の屋敷500戸以上が焼き尽くされ、薩摩藩の砲台のほか、鹿児島城の一部や工場が建ち並ぶ集成館も艦砲射撃で破壊された。

これではいくら薩摩隼人が勇猛であろうと勝ち目はない。この戦いから攘夷の不可能を悟った薩摩藩は、以後英国に接近して積極的に西洋技術を導入する方針へ転換することとなった。また薩摩藩が予想外の戦力を持っていることを知った英国側も、幕府を後押ししているフランスとの対抗上、薩摩を支援するようになっていった。

PHOTO

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 (祇園之洲公園の高麗橋側から見た薩英戦争記念碑)

 

 (碑の裏面)

 (生麦事件のときの薩摩藩の行列のシンボルとして、槍の穂がかたどられている)