鹿児島

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「大山巌誕生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

日露戦争で活躍した軍人といえば、長州では乃木希典(のぎまれすけ)、児玉源太郎(こだまげんたろう)などが著名だが、薩摩ではなんといっても東郷平八郎、そして大山巌があげられるだろう(「海の東郷、陸の大山」などと称された)。元帥という、軍人では最高の地位につきながら、偉ぶらず権力を志向することもなく、鷹揚とした人柄が誰からも愛される薩摩人であった。

大山巌は西郷隆盛とは従兄弟同士で、同じ加治屋町の郷中で14歳年上の西郷の薫陶を受けて育った。若いころは尊皇攘夷に燃える薩摩武士であり、文久2年(1862年)には、血気にはやる有馬新七らとともに幕府方の要人を襲撃する計画に参加して、それを抑えるべく出動した藩上層部による上意討ち(寺田屋事件)にあった。しかし大山は西郷従道(隆盛の弟)とともに藩の説得に応じたため、帰国謹慎処分のみで許された。

その後、生麦事件をきっかけに薩英戦争が勃発すると謹慎はとけ、スイカ売りに化けた藩士が英国の艦船に侵入しこれを乗っ取るという奇想天外な策が講じられ、大山は黒田清隆や西郷従道らとともにその決死隊の一員となった。が、これは未遂に終わり、結局英国の艦砲射撃によって鹿児島の町がさんざんに破壊されるのを見せられることになった。

大山は段違いに進んだ西洋砲の威力を目の当たりにして衝撃を受け、黒田清隆とともに江戸の砲術家・江川太郎左衛門に入塾して砲術を学んだ。「弥助砲(弥助(やすけ)は大山の名前)」を発案するなど砲の専門家となった大山は、戊辰戦争では銃・砲兵部隊を率いて各地を転戦した。

維新後、軍事留学でスイスに滞在していた大山は、明治6年(1873年)に「西郷らが職を辞して鹿児島へ帰ってしまい政府が大混乱している」との知らせを受け、いそぎ帰国して鹿児島の西郷を訪ね、腹を割って話し合ったが、西郷の固い決意を変えることはできなかった。

結局、4年後の明治10年(1877)、西郷は鹿児島の私学校生徒や不平士族に奉じられて政府に叛旗をひるがえした(西南戦争)。政府軍の指揮官として、反乱軍を討伐する立場となった大山は、鹿児島・城山で最後の抵抗を行う西郷軍に猛攻を加えた。心ならずも故郷の大先輩である西郷に引導を渡す役を引き受けた大山は、以後二度と鹿児島に帰ることはなかった。その墓地も自身の愛した那須(栃木県)にある。

日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官(元帥)として日本陸軍を統括。苦戦しつつも旅順、奉天を攻略し、戦況を有利に導いた。つねに冷静さを失わないおおらかな人柄は、明治天皇からも深い信頼を受けていたという。

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 (大山巌誕生地は、鹿児島中央高校(左手)から道路をはさんだ向かい側にある。この先の信号を右に曲がると、西郷隆盛誕生地へ)