鹿児島

Google Map

「島津齊彬像」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

島津斉彬と島津久光とは(異母)兄弟である。斉彬が藩主になるとき、この二人が家督をめぐって争った(お由羅騒動)。実は彼らの曾祖父である島津重豪(しげひで)は、西洋文明にのめりこみ派手な生活を好んだため、膨大な借金を作って藩財政を危機に落とし入れたという過去があった。

斉彬も同様に、西洋文明を積極的に取り入れた改革を行おうとしていたため、藩財政の将来を危ぶんだ家老・ 調所広郷 (ずしょひろさと)らは、久光の生母(久光は側室の子)であるお由羅(ゆら)の方と結んで、斉彬派を追い落としにかかった。

一時は斉彬派が壊滅寸前になったが、斉彬派の一部が血縁のある福岡藩・黒田家に頼み、幕閣・阿部正弘らの仲介を得て、ようやく嘉永4年(1851年)斉彬が藩主の座につくことになった。

藩政をにぎった斉彬は、さっそく藩内に近代的な洋式工場の建設に取りかかり、製鉄や造船、紡績業に力を入れたほか、ガス灯の実験を行うなど西洋的なインフラの整備にも着手した(集成館事業)。 また、アメリカから帰国したジョン万次郎を呼び寄せて、造船技術を藩の技術者に習得させ、黒船来航による国防意識の高まりによって幕府の「大船建造の禁」が解かれると、洋式帆船「いろは丸」や軍艦「昇平丸」のほか、国産初の蒸気船「雲行丸」を建造させた。

こうした富国強兵の一方で、西郷隆盛や大久保利通など若い人材の育成にも力を注いだ。斉彬の目はつねに外国からの侵略をいかに防ぎ近代国家をつくるかということに向けられていた。そのためには朝廷と幕府が一致協力して(公武合体)国家の発展に尽くさねばならないと考え、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らとともに、幕政改革にも積極的に関わった。

当時の老中首座は、諸藩の意見を広く募る方針の"民主的な"指向をもつ阿部正弘だったが、阿部が死去し安政5年(1858年)に"徳川家第一主義"の井伊直弼が大老に就任すると、将軍継嗣問題で斉彬らと対立。斉彬は幕府への抗議のため、5000の兵を率いて上洛する意思を固めたが、その矢先の安政5年(1858年)7月に急死した。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 (照国神社社殿横に建つ島津斉彬の像)

 

 

 (像の下の説明板)

 (像の右側は「戊辰の役戦士顕彰碑」)