鹿児島

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「若き薩摩の群像」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

当時はすでに開国していたが、幕命による以外、日本人の海外渡航は禁じられていた。そこで彼らは変名を使い、甑島(こしきじま)列島へ向かうということにして、慶応元年(1865年)4月17日、串木野(くしきの)からグラバーの手配した船で英国に向けて出港した。
彼らは約2か月後の6月21日にロンドンに到着、ロンドン大学に留学生として学んだ。

派遣された19名は、使節団員として新納久脩(にいろひさのぶ)、町田久成(まちだひさなり)、松木弘安(まつきこうあん)(寺島宗則(てらしまむねのり))、五代友厚(ごだいともあつ)、留学生として、名越時成、吉田清成、中村博愛、市来和彦、森有礼、村橋直衛、畠山義成、鮫島尚信、田中盛明、東郷愛之進、町田実積、町田清次郎、磯永彦助、高見弥一、堀孝之である。

使節団は、英国で紡績機を購入し、慶応3年(1867年)磯(現・鹿児島市吉野町磯)に日本初の洋式紡績工場「鹿児島紡績所」を設立した。
また、松木弘安(のちの外務卿・寺島宗則)は、英国政府との折衝を行い、「もはや日本は幕府の時代ではなく、薩摩をはじめとした雄藩が新たな政治体制を構築していく」ということを力説。英国はフランスに対抗して対日影響力を強めるために、薩長倒幕勢力を支援していくことになる。
また、森有礼(もりありのり)が初代文部大臣、畠山義成(はたけやまよしなり)が東京開成学校(のちの東京大学)校長となり、他の者たちも維新の政界や実業界で活躍した。

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 (躍動感に満ちた「若き薩摩の群像」。鹿児島中央駅から降りた人々を出迎える)

 (モニュメントは、観覧車「アミュラン」とともに、鹿児島中央駅のシンボルとなっている)

 (鹿児島市電は、左方向が鹿児島の繁華街「天文館通」方面)

 (薩摩の未来を担ってヨーロッパに密航した4名の使節団と15名の若き留学生を紹介した案内板)

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