鹿児島

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「月照上人遺蹟」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

月照は文化10年(1813年)、大坂の町医者の子に生まれ、15歳のときに清水寺・成就院(じょうじゅいん)に入山(この年に西郷隆盛が生まれている)、その後同院の住職となった。成就院は近衛家の祈願寺であり、近衛家と島津家が姻戚関係にあったことから、月照は薩摩藩士たちと交流をもつようになった。

井伊直弼(いいなおすけ)が大老になると、井伊の反動的な政策に反発する薩摩藩に同調し、月照は勤王・反幕的な立場を鮮明にするようになった。不用意に開国をすれば、国中にキリスト教が広まり、仏教を駆逐してしまうのではないかとつよい怖れをいだいていたのだ。

安政5年(1858年)7月、幕府に抗議の姿勢をとっていた藩主・島津斉彬が急死すると、京都に滞在していた西郷隆盛は斉彬に殉じて切腹しようとしたが、月照は西郷を説得し殉死を思いとどまらせた。

ところが、すぐに井伊直弼による安政の大獄が始まり、身の危険を感じた月照はひそかに鹿児島へ逃れ、挙兵計画が頓挫した西郷も鹿児島へ戻った。薩摩藩では幕府の追及をおそれ、月照を追放処分にし、日向国境で斬り殺そうとする。月照も西郷ももはや前途はないと悲観し、ふたりは錦江湾に身を投げた。そして、西郷は救助され、月照は亡くなったのだった。享年46。(参照:僧月照の墓

ちなみに、月照は周防国出身の月性(げっしょう)とは別人(同じ読み方なので間違えやすい)。月性もやはり勤王の僧で「男児志を立てて郷関を出づ…人間到る処青山有り」の漢詩で有名。

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 (鹿児島銀行本店別館の東南角にある月照上人遺蹟の碑)

 

 

 (このルネッサンス様式の建物は、第百四十七銀行として大正7年(1918年)に竣工した。現在は鹿児島銀行本店別館として使われている)