鹿児島

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「篤姫誕生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

篤姫(島津一子(かつこ))は、島津家の分家に生まれ、のちに13代将軍・徳川家定の正室になり、幕府が倒れるまで大奥の采配をふるった人物。19歳のときに輿入れのために江戸に発ち、22歳のとき家定との婚儀がとり行われた。家定は病弱であり、篤姫が家定とともに過ごした日々はわずか1年8カ月ほどだった。夫の死後篤姫は落飾して「天璋院」と号した。その後何度か里帰りをする機会はあったが、篤姫は一貫して徳川家の人間としてふるまい、江戸入りしてからは一度も故郷・鹿児島へ帰ることはなかった。

その篤姫が誕生したのが、鹿児島城下のここ今和泉島津家本邸で、ときは天保6年12月19日(1836年2月5日)。今和泉島津家というのは、薩摩藩第5代藩主の島津継豊(つぐとよ)のときに、藩主の弟・忠郷(たださと)が新たに島津分家として興した家である。
篤姫は島津の分家の娘であるから、本家に比べると家格は劣る。この身分の低さが将軍家に輿入れするときに多少の問題を引き起こした。 おそらく幕勢さかんなころであれば、このような縁組みは実現していなかったのではないか。
篤姫は江戸入りしてから2年ほど薩摩藩邸(最初は三田、のちに渋谷)に滞在し、最終的には右大臣・近衛忠煕の養女となることで、ようやく幕府内の異論も収まり婚儀にこぎつけることができたのだった。
(→篤姫が江戸に向かう途中立ち寄った伏見・薩摩藩邸
(→江戸入りして最初に滞在した三田・薩摩藩邸

大奥に入った篤姫は当初、姑にあたる家定の生母・本寿院(ほんじゅいん)や大奥の実力者・滝山らとの人間関係に苦労したが、持ち前の気丈な性格で大奥のトップとしてその存在感を増していった。

夫の家定が亡くなったあと、将軍職をついだ14代・家茂は、文久2年(1862年)に孝明天皇の妹である和宮を正室に迎えた。これはペリー来航以来、相対的に徳川家の力が低下しているのを、朝廷の権威を借りて復活させようとする意図(公武合体策)からである。
内親王の位についていた和宮は、篤姫はもちろん将軍・家茂よりも身分が高く、大奥に入っても御所風の生活を貫こうとして、大奥を取り仕切る篤姫とは何かと衝突することが多かった。ただし次第に両者は和解し、明治後、篤姫はしばしば和宮と会う機会をもったという。

戊辰戦争が始まり、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れて、新政府軍が江戸総攻撃のために東上してくると、篤姫は東征軍参謀の西郷隆盛に、徳川家存続と徳川慶喜の助命を嘆願する書簡を出した。西郷隆盛が勝海舟との会談で江戸城総攻撃を中止した背景には、この篤姫の嘆願書が功を奏したという見方もある。

江戸城が明け渡されるとともに、大奥の歴史も幕を閉じた。篤姫は家定生母の本寿院とともに江戸城を退去して一橋邸に移った。その後、大奥が消滅したことで職を失った女性たちの面倒を最後までよく見たという。明治16年(1883年)11月20日に49歳で亡くなった。墓所は上野の寛永寺にある(通常非公開)。

PHOTO

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 (南洲神社入口の交差点を西へ向かうと、左手に今和泉島津家の屋敷跡が見える)

 (篤姫が誕生した屋敷跡は、現在個人宅となっており、一般に公開はされていない)

 (屋敷前のバス停にある案内地図)

 (最初の写真とは反対側から。右手が屋敷跡で、奥行き方向の突き当たりが南洲神社)