横浜

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「本覚寺」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

1858年6月に日米修好通商条約が結ばれ、正式に日米間に近代国家としての交流が始まると、総領事として下田に滞在していたタウンゼント・ハリスはアメリカ公使となって江戸の元麻布・善福寺の公使館に入った。

一方、新たに神奈川領事として任命されたドールは、幕府が用意した横浜村の領事館を断り、当時繁栄していた神奈川宿の本覚寺を領事館とするよう認めさせた。

幕府は宿場町である神奈川に外国人を住まわせることで日本人(とくに攘夷派)とのトラブルが発生することを怖れ、横浜に領事館をつくるよう各国に勧めたが、外国側はこぞって、東海道から遠く離れた交通不便な横浜ではなく、神奈川に領事館を開いたのである。

しかしその後横浜は、外国人・日本人の商館が次々に建設されて急速に発展し、やがて各国の領事館も横浜に移転していった。本覚寺につくられたアメリカ領事館も3年ほどで閉鎖された。その後、本覚寺はようやく本来の曹洞宗の寺院として復活することになる。

本覚寺がアメリカ領事館となったときに、山門などがペンキで塗られた。日本で初めてペンキ塗装された建造物と言われている。今でもその痕跡が一部に残っているという。

文久2年(1862年)8月に起こった生麦事件では、薩摩藩士に襲われた4名のうち、マーシャルとクラークが、この本覚寺アメリカ領事館に逃げ込み、医師のヘボンに治療を受けている。

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 (開国当初、アメリカは、神奈川の港を見下ろす高台にある本覚寺を領事館とした)

 (山門へ続く階段のふもとにある案内板)

 (山門とアメリカ領事館跡の碑)

 (日米修好通商条約の締結に尽力した幕臣(目付)・岩瀬忠震(いわせただなり) の碑。岩瀬は祖法を破っての開国という幕府の難局に際し、諸外国との折衝にあたり、横浜の開港を進めた。もし岩瀬がいなかったら、現在の賑やかな横浜の街は存在しなかっただろう。岩瀬は一刻も早く開国し外国と交易することによって日本の国力を高めることが急務であると考えていた。そのため岩瀬自身は横浜よりも交通至便な神奈川を開港することが望ましいと考えていたようだ。もしこの案が通っていれば、いまのJR横浜駅周辺が経済・行政の中心地となっていただろう)

 (全国塗装業者組合が建立した合同慰霊碑。本覚寺はペンキ塗装の嚆矢と言われている)

 (本覚寺本堂)

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