横浜

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「生麦事件発生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

島津久光は、一度も藩主になったことはない。しかし藩主の実父として薩摩藩の最高権力の座にあり、幕末にあって薩摩藩の影響力を強めるため、何度も上京している(文久2年4月、文久3年3月、文久3年10月、慶応3年4月の4度)。
その最初の上京が文久2年(1862年)4月(3月に鹿児島出発)で、兵を率いて京都にのぼり、さらに朝廷の勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)に随従する形でそのまま江戸に下り、幕政改革を要求した。
この上京の途中、伏見において久光は、有馬新七ら自藩の尊攘過激派を、自らの政治ビジョンに合わない危険な存在とし、粛正を命じている(寺田屋事件)。

そして、江戸からの帰途、文久2年(1862年)8月21日に久光一行が神奈川宿の手前の生麦村に差し掛かったときに事件は起こった。横浜在住のイギリス人商人・ウィリアム・マーシャルと友人のウッドソープ・クラーク、チャールズ・リチャードソン、それに香港から旅行に来ていたマーガレット・ボロデール夫人の4人は、川崎大師を見物するため騎馬で東海道を東へ向かっていた。
生麦村で久光の行列に出会った彼らは、「馬から下りて道端によけよ」という随行者たちの言葉や手振りが理解できず、そのまま行列とすれ違いながら進んでいった。久光の駕籠の近くまで来たとき初めて引き返した方がよいと判断したものの、逆に狭い街道での馬の取り回しで周囲を混乱に落とし入れてしまった(おそらく藩士たちが激しく騒ぎ立てたため馬も興奮したのだろう)。馬が横向きになって行列を妨げ、これを久光に対する無礼暴挙とみなした奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)をはじめとする薩摩藩士たちによって斬りつけられた。

4人は神奈川(横浜)方面へ騎乗のまま逃げたが、ボロデール夫人以外の3人はいずれも負傷していた。そしてリチャードソンは現場から700メートルほど走ったところで力尽きて落馬し、追ってきた薩摩藩士・海江田信義(かいえだのぶよし) にとどめを刺された(現在、生麦事件碑が立っている)。マーシャルとクラークはアメリカ領事館(本覚寺)へ逃げ込んで治療を受け、ボロデール夫人は横浜の居留地まで帰り着いて一部始終を報告した。

薩摩藩は生麦事件に対するイギリスの賠償要求を拒否したため、翌文久3年(1863年)7月に薩英戦争が起き、それをきっかけとして逆に薩摩とイギリスは接近することになった。

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 (京浜急行本線・生麦駅。地名の由来は江戸時代、この周辺一帯が麦畑であったことから)

 (旧東海道。奥行き方向が神奈川(横浜)方面。品川宿から進んできた島津久光の一行は、このあたりで馬上の英国人4名に遭遇。随行の藩士たちは、騎馬で行列を乱した彼らを無礼打ちにした。当時の道幅は今とだいたい同じ(4間)だったという)

 (生麦事件の現場。当時ここは豆腐屋の村田屋勘左衛門宅だった)

 (無礼な異人を斬り捨てたという事件は、攘夷の世論が沸騰する当時、「壮挙」として受け止められた。尊皇攘夷の総元締的な存在だった長州では、薩摩に遅れてはならじと、高杉晋作らが品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちにするなど、攘夷運動がますます加熱することとなった)

 (神奈川(横浜)方面から。生麦事件現場の立て札は左側になる。この道を川崎大師へ向かっていたイギリス人4名に思わぬ悲劇が待ち受けていた。なお、横浜の居留地に在住の外国人は、東は六郷川(多摩川)の手前まで自由に旅行することができた(西は小田原手前の酒匂川、北は八王子まで))