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「木戸孝允誕生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

桂小五郎(維新前後から木戸孝允)は、過激な尊攘色の強い長州藩志士の中で、ひとり慎重派で理知的なイメージを与える人物である。大局観をもちバランス感覚に富んだ政治力には、明治天皇や朝廷の高官たちからの信頼も厚く、桂がもし西郷のような骨太な胆力をも兼ね備えて長生きしていれば、おそらく明治政府はもっと民主的、開明的な国家として成長していたにちがいない。

桂はまた剣豪としてもよく知られている。江戸の斎藤弥九郎(さいとうやくろう)道場(練兵館(れんぺいかん) )で塾頭を務め、神道無念流の免許皆伝を得た。しかし、桂が実際に剣で人を殺傷したことはない。刀を抜く前に逃げ道をさがすというのである。
元治元年(1864年)の池田屋事件では、桂も浪士たちの密議に参加する予定だったが、池田屋に早く着きすぎたため別の場所で時間をやりすごしている間に事件が起こったと手記に残している。が、実際には新選組の襲撃を知ると密かに逃げ出したのではないかと後世の史家には疑われ、「逃げの小五郎」という有り難くない称号も授与されている。

桂はモテ男でもあり、さまざまな場所で浮き名をはせている。その中で、京都で出会った芸妓・幾松(いくまつ)は、桂にとって命の恩人でもあった。文久3年(1863年)の8月18日の政変以来、幾松は、京都での長州藩の復権のために水面下で活動する桂を、新選組や幕府の役人からかくまい守りぬいた。のち幾松は桂の妻となり木戸松子となった。

京都の政変後、桂は高杉晋作と共に、国元の過激進発派を慰留していたが、ついに止めることができず禁門の変が勃発、桂は京都を命からがら抜け出し、但馬(たじま)・出石(いずし)に潜伏した。国元は幕府に恭順を誓う俗論派が政権を握っていたが、半年後に高杉のクーデターが成功し正義派が政権を取り戻すと、藩政府に帰り政務の中枢をになう。

その後、坂本龍馬の仲介で薩長同盟締結(慶応2年(1866年))の中心人物となり、翌年の大政奉還、戊辰戦争を経て、新政府ができると参与(明治3年に参議)となり、版籍奉還、廃藩置県に尽力。明治4年(1871年)11月から明治6年(1873年)7月まで、岩倉遣外使節団の副使として欧米を見聞して回った。明治10年(1877年)5月、西南戦争の最中に「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を残し、病没した。享年45。

PHOTO

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 (維新の三傑・木戸孝允(桂小五郎)の旧宅)

 (木戸松子の芸妓時代の名は幾松。木戸正二郎は孝允の甥で、実子のない孝允の養子となった)

 (右の家が旧宅)

 (禁門の変のあと、京都を脱出した桂小五郎は但馬国・出石に潜伏した。ここは桂が荒物屋を営んでいた跡。幾松は長州からはるばる小五郎を迎えに当地までやってきた)