Google Map

「高杉晋作誕生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

幕末長州の風雲児・高杉晋作は萩城下150石取りの上士クラスの家柄に生まれた。年少のころから大人の武士たちに臆することなく、自由奔放に成長した高杉だったが、偉大な教育者・吉田松陰と出会ったことによって、彼の奇矯なエネルギーは倒幕戦へと方向付けられた。そしてその自由な発想と戦略眼、決断力が藩内クーデター戦や対幕戦争に存分に生かされることになる。

師の松陰は、安政6年(1859年)に安政の大獄の犠牲となって逝去。高杉の性格はきまじめな師の松陰とはまるで正反対だったが、尊皇攘夷そして倒幕へと向かう基本路線は忠実に受けついだといえる。

文久2年(1862年)、高杉は幕府の貿易船「千歳丸」で上海に行き、そこで中国人が西洋人に奴隷のような扱いを受けているのを見て愕然とする。このままでは日本も中国と同じ運命をたどるだろうという強い危機感を覚え、帰国後、彼は英国公使館を焼き討ちにするなど、いっそう激しい攘夷運動を繰り広げていくとともに、外国の言いなりになっている幕府を倒さねば日本の未来はないと確信するようになる。

文久3年(1863年)、高杉は突然剃髪して出家(この剃髪のため、のちザンギリ頭となる)。そして高杉が山にこもっている間に長州藩は、下関海峡を通る外国船に砲撃し攘夷を実行した。このあとすぐに外国の報復を受け慌てた藩は、下関防衛のため高杉を起用。高杉は身分を問わない志願兵の組織である「奇兵隊」を組織した。

同年8月、京都で8月18日の政変が起きて長州藩は京都政界を追われた。これに対して藩内では武力進発派が台頭。高杉は彼らを抑えるために脱藩して京都に潜伏したが、これを咎められて野山獄に投獄される。元治元年(1864年)、高杉が獄中にある間に池田屋事件、禁門の変が発生。そして四カ国連合艦隊による下関砲撃で長州軍が散々に敗れると、高杉は外国との和議交渉を任され、領土租借の要求を頑としてはねつけた。これは2年前の上海での見聞があった上でのことだろう。

禁門の変で幕府から征討されることになった長州藩の藩内では、佐幕の保守派(俗論党)が台頭、高杉は一時福岡に逃れたが、元治元年12月にひそかに長州に帰還すると、俗論派政権を倒すべく伊藤俊輔らを伴い下関(功山寺)で挙兵、山県狂介らも同調して藩の内戦に勝利し、長州藩は再び倒幕派が政権を握った。

慶応2年(1866年)に幕府が第二次長州征伐を発して攻め寄せてくると、高杉は軍艦で奇襲をかけて幕府艦隊を追い返し、また関門海峡を渡って小倉城を落とすなど八面六臂の活躍をみせた。戦いは長州側の勝利に終わったが、翌慶応3年(1867年)高杉は肺結核を重くし、4月に下関で亡くなった。享年29。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 (菊屋横町の静かな佇まいの中にある高杉晋作の旧宅。左側の碑は「高杉春樹(=晋作の父)舊宅地」。)

 (玄関を入って右に小さな庭がある。座敷には上がれない)

 (敷地内から玄関の方向)

 (「日本の道100選」にも選ばれている菊屋横町。左側が高杉家)

 (右側が高杉家)

 (晋作広場に立つ「高杉晋作立志像」。2010年10月31日の除幕式には、萩市長、下関市長とともに、当時放映中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で高杉役を演じた伊勢谷友介氏も出席した。「晋作広場」は、高杉晋作誕生地の向かい側(ひとつ前の写真の右側あたり)に整備された公園)

関連ページ

功山寺(高杉晋作決起の地)