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「吉田松陰誕生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

吉田松陰は、長州藩士・杉百合之助の次男として、文政13年8月4日(1830年9月20日)に現在の萩市の郊外・松本村に生まれ、のち叔父で山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となった。叔父の玉木文之進のスパルタ教育を受けて学問に励み、11歳のとき藩主の前で武教全書の講義を行ってその才能が世に知られることとなった。

アヘン戦争(1840年〜42年)で清が西洋諸国に敗れたことを知った松陰は、強い危機意識をもち、時代に合った兵法の探究をめざすようになる。嘉永3年(1850年)には九州に遊学、さらに江戸に出て洋学と国防の研究者・佐久間象山(さくましょうざん)に師事した。象山は松陰に外国への密航を勧め、松陰は門弟の金子重輔(かねこしげのすけ)とともに、再来したペリー艦隊の軍艦・ポーハタン号に乗り込もうとしたが乗船を拒否され、失意のうちに下田の奉行所に自首し、江戸伝馬町に投獄された。

その後、長州への帰国を許されて、自宅蟄居の身となる。このときに藩士の子弟や町人などに教育を授けはじめ、やがて叔父の創立した松下村塾を引きついで兵学や徳育などの講義を行った。塾に集まった門弟たちがのちに対幕府戦争や明治維新の国造りに活躍することとなる。

安政5年(1858年)、幕府大老・井伊直弼は朝廷の勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結。これに憤激し国家の一大事と考えた松陰は、以後倒幕を公言し、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を藩に相談するなど、過激な言動に走り始めた。驚いた藩は松陰を野山獄に投じてしまう。

井伊の通商条約の独断締結は、将軍継承問題も合わせて、日本中に批判の嵐を巻き起こしていた。これを放置しては幕威に関わると考えた井伊直弼は、幕政を批判する者を片っ端から粛正する「安政の大獄」を展開。遠い長州の獄中にある松陰のもとにも江戸への出頭命令が来た。

松陰は、江戸の評定所で取り調べられたが、当初、幕府が松陰をとがめ立てしたのは、尊攘派の若狭小浜藩士・梅田雲浜(うめだうんびん)と関係していたのではないかという疑いからだった。これについては松陰の釈明が認められ、軽微な罪で済みそうな状況となった。

しかし、純粋な情熱の固まりでできている松陰の性格は、事なかれ的な顛末に満足できなかった。年来の主張を直接幕府に訴える絶好の機会だと考えた松陰は、心を込めて話せば役人もわかるはずだと思い、堂々と幕政の批判を展開し、老中の暗殺を企てていたことまですべてを明らかにしてしまったのだ。

しかし幕威高揚のためなら手段を選ばない井伊直弼がこれを許すはずがなく、結局松陰は安政6年(1859年)10月27日に伝馬町において斬首。井伊直弼が桜田門外で散るわずか4か月前のことだった。

PHOTO

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 (松陰誕生地のそばに立つ、松陰と金子重輔の銅像。金子重輔は松陰の弟子で、松陰が下田沖の黒船に乗り込んで密航しようとしたときに行動をともにした。幕末史の"IF"のなかで、「もし吉田松陰が密航に成功していたら」という想像は非常に面白い。きわどい歴史の分岐点といえる)

 (銅像の下からながめる萩市街と、萩城をふもとにいだく指月山(標高143m))

 (玉木文之進旧宅から坂をのぼってきたところ。左が松陰墓所、右が吉田松陰・金子重輔の像。このすぐ右が吉田松陰の誕生した家のあった場所)

 (吉田松陰の生まれた萩藩士・杉家の屋敷跡。松陰の初名は杉虎之助)