江戸

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「山内容堂墓所」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

京浜急行・鮫洲駅から第一京浜(国道15号線)をはさんで反対側に大井公園があり、その南端に山内容堂ほか縁者の墓石が立っている。

山内容堂

山内容堂は、文政10年(1827年)10月、高知に生まれ、嘉永元年(1848年)に土佐藩主となった。島津斉彬(薩摩藩主)、松平春嶽(福井藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)とともに「幕末の四賢侯」と言われた。かれらは幕末日本の行く末に危機感を持ち、財政改革や海防の強化を目指し、自藩の改革のみならず幕政改革をも要求した。

しかしこれらの「開明的」大名たちは、井伊直弼の安政の大獄によってしばらくその活動を抑えられることになる(島津斉彬は井伊が大老となった直後に急死)。容堂も隠居生活を余儀なくされ、藩主の座を前藩主の弟である豊範にゆずった。

桜田門外の変で井伊直弼が世を去るとまもなく容堂は政界に復帰し、土佐の大殿として事実上のトップに返り咲いた。そして隠居謹慎中に吉田東洋を暗殺した武市半平太の一派「土佐勤王党」に大弾圧を加え、武市を切腹させた。吉田東洋は以前容堂が藩政改革の要として土佐藩の参政に抜擢したいわば股肱の臣である。

土佐藩は薩摩藩などと同じく、基本的には公武合体派に位置づけられる。その中でも山内家・容堂自身は佐幕色がつよい。朝廷を中心とする新たな政治勢力を見据えつつも過激な尊皇攘夷運動は決して許さなかった。これは山内一豊が徳川家康に土佐一国を与えられたときからの徳川家への恩義の念が山内家に伝わってきたせいもあるだろう。みずからを鯨海酔侯とし「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と陰口をたたかれた容堂は、時代の流れを読み改革の必要性を痛感しながらも最後まで徳川家を擁護しようとし続けた。

このような容堂にとって、最もその存在価値を表すことができたのが、徳川慶喜への大政奉還案の具申だったろう。幕府が政権を朝廷に返還することで混迷する日本の政局を打開し挙国一致の体制を築いて外国に対抗する。そうした案は横井小楠らにより以前から唱えられていたが、このアイデアをもとに坂本龍馬が「船中八策」として土佐藩の重臣・後藤象二郎に提示したものを、徳川家を救い朝廷にも貢献し自藩の名声をも高める妙案として容堂は「ひざをうって」賛同したのである。ただし容堂は妙案の出所が龍馬だったことは知らない。

容堂の建白に対し徳川慶喜も時勢を鑑みてこれを受け入れ、慶応3年(1867年)10月、大政奉還が実現した。これにより幕府は事実上滅んだが、一大名家としての徳川家は依然として他家を圧する大勢力を保持していた。徳川家を討つ名目を失った討幕派は巻き返しをはかって12月に朝廷を占拠しクーデターを断行、王政復古の大号令を出し、小御所会議で慶喜の辞官納地を決定した。このとき会議に参加していた容堂はこの処置につよく反発したが、逆に薩摩藩の西郷・大久保や岩倉具視らに明治天皇への不敬を譴責されて立場を失った。

鳥羽伏見の戦いが始まると、容堂はこれを徳川と薩摩・長州らの私戦として参戦せぬよう藩の将兵に命じたが、板垣退助を初めとする主戦派はこれに応ずることなく率兵上洛し、官軍として戊辰戦争に加わった。

この時点で山内容堂は実質的に土佐藩への影響力をなくしたといえる。維新後は江戸の綾瀬草堂にて酒色にふける日々を送り、明治5年(1872年)に脳溢血で死去した。享年46。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

(京浜急行鮫洲駅から歩道橋で第一京浜国道を越えて降りると、山内容堂墓(左方向へ)への案内板がある。通常はこの道からでないと墓地へは入れない。階段は大井公園(立会小学校)に通じる)

(一本道の途中に門扉があり、時間外は施錠される)

(階段をのぼると左手に立会小学校のグラウンドがあり、右手が墓地)

(山内容堂の墓石)

(案内板)

(墓地は高台にあり、国道をはさんで反対側にある高架の鮫洲駅と向かい合うような感じになっている。容堂他縁者の墓石もある。灯籠などが転がっているのは、2011年の東日本大震災の影響ということである)