江戸

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「新徴組屯所跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

文久3年(1863年)2月、清河八郎が幕府に献策して集めた「浪士組」が、京都にのぼった。朝廷に攘夷を約束するために上洛する将軍家茂の警護が目的である。出羽国庄内藩出身の尊皇攘夷志士である清河は大変な策士だった。”幕府のために”集めた浪士を、上京後には”朝廷のために”使う攘夷の戦力に変えてしまおうとしたのである。

京都で、「浪士組は攘夷実行が本務である」との演説を行った。あくまで幕府のために任務を果たそうとする近藤勇や芹沢鴨らはこれに反発し、清河と袂を分かって、のちの新選組の母体となった。一方、残った浪士組は幕府の命で江戸へ帰還。清河はこの浪士組を背景に攘夷実行を幕府に迫ろうとした。

しかし、幕府から危険人物とみなされた清河は、麻布・一之橋で幕臣・佐々木忠三郎らに暗殺されてしまう。

幕府は行き場を失った浪士組を、清河の出身地でもある庄内藩の預かりとし、新たに「新徴組」と名づけ、江戸市中の警備に当たらせることとした。のち(鳥羽伏見の戦いの前)、西郷隆盛が旧幕府側を挑発したことに対し、庄内藩が薩摩屋敷を襲うなどの実力行使に出たが、このとき新徴組も破壊行動に参加している。

戊辰戦争で旧幕府側が敗退を続けると、庄内藩は出羽へ帰国し新徴組も行動をともにして新政府軍への抵抗を続けたが、やがて庄内藩は降伏。新徴組は維新後、厳しい開拓事業に従事させられ、雲散霧消の体で幕末史から姿を消した。

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 (飯田橋2丁目の交差点に立つ新徴組屯所跡の石碑。左方向が飯田橋駅。新徴組の屯所は江戸・飯田町木坂と、本所三笠町に設けられた)

 

 

 (「飯田町」の名の由来は、徳川家康がこのあたりで道を尋ねた百姓が「飯田喜平衛」だったことからという。昭和41年(1966年)に、住所表示としての飯田町の名は消えて飯田橋となった)