江戸

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「勝海舟邸跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

幕臣・勝海舟は、安政6年(1859年)から明治元年(1868年)という、幕末でもっとも日本が激動した時期、この赤坂本氷川坂下の地に自宅を置いた。

ここに転居した年に幕府から渡米を命じられ、翌安政7年(1860年)1月に品川沖から咸臨丸に乗船して品川を出港した。この渡米は、日米修好通商条約の批准をワシントンで行うための派遣であった。
この使節団の正使は外国奉行の新見正興(しんみまさおき)。正使の一行はポーハタン号に乗船し、勝の乗った咸臨丸は護衛という名目でポーハタン号に同行した。勝が艦長の役割を担った咸臨丸は日本人の航海術を向上させるための、いわば練習船ともいえ、(米国人の助けは借りながらも)日本人が自らの手で操船し太平洋を往復した初めての航海となった。このとき勝とともに、福沢諭吉や中濱万次郎(通訳)もアメリカに渡った。

そして勝らが渡米中の安政7年(1860年)3月に、開国を進めていた井伊直弼が江戸城・桜田門外で暗殺され、国中に攘夷運動の嵐が吹き荒れていく。

帰国後、勝は軍艦奉行に就任し、元治元年(1864年)5月に神戸海軍操練所を設立。しかしすでに幕府の未来を見切っていた勝は、反幕派の浪人たちも分け隔てなく海軍操練所に受け入れたため、幕府の怒りをかって早くも翌年に操練所は閉鎖のうきめにあう。勝は軍艦奉行を罷免され蟄居生活にはいった。

慶応2年(1866年)、倒幕勢力に追い詰められてきた幕府は、ふたたび勝を軍艦奉行に起用。第二次長州征伐の停戦交渉を任された。そして勝は、幕府の終焉を迎える最後の段階で、東征大総督府参謀の西郷隆盛と会談、江戸城無血開城を実現させた。

PHOTO

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 (幕臣・勝海舟が幕末期に住んだ邸宅跡。現在は「ソフトタウン赤坂」という建物が建っている)

 (木碑の真下に設置されている、勝の経歴を紹介した説明板)