江戸

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「善福寺」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

日米和親条約により、アメリカ領事館が伊豆国下田・玉泉寺 (ぎょくせんじ) に置かれ(日米和親条約ではアメリカ人の移動範囲は下田・函館周辺に限られていた)、タウンゼント・ハリスが初代の駐日領事として赴任した。ハリスは日本との間に通商条約を結ぶべく圧力をかけ続け、大老・井伊直弼は安政5年(1858年)6月19日に、ついに日米修好通商条約を締結。

この条約によってハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を引き払い、当地(麻布・善福寺)にアメリカ公使館を開設した(1859年)。
現在、麻布周辺には数多くの大使館があるが、ここはその先駆けである。ちなみに現在のアメリカ大使館は赤坂1丁目(溜池)にある。

タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)は、1804年10月3日、アメリカ・ニューヨーク州に生まれた。家は貧しかったが、苦学して教育事業に携わり、のち貿易事業に転身し世界各地を訪ね、とりわけ東洋への見識を深めた。1854年に寧波の領事に任じられたのち、大統領ピアスから日本と通商条約を結ぶための全権を委任される。

嘉永7年(1854年)ペリーによって結ばれた日米和親条約では、その第11条に「調印日から18カ月経過した後であれば、両国政府の一方が必要と認めれば、アメリカは下田に官吏を駐在させることができる」という一項があり、ハリスはこれを知って、自ら日本への赴任を望んだという。

安政3年(1856年)7月21日、安政3年(1856年)7月21日、ハリスは軍艦サン・ゼシント号に乗って下田に現れた。突然の来訪に、下田奉行・井上清直(きよなお) は驚いて退去を要求したが、ハリスは強硬な姿勢をくずさず、結局幕府側は滞在を認め、ハリスは通訳のヘンリー・ヒュースケンらとともに下田の玉泉寺にはいって、これを領事館として駐在をはじめた。ハリスもペリーのやり方と同様、強引に日本に入り込んできたのである。

ハリスの目的は日本と通商条約を結び、貿易を開始させることだった。先に結ばれた日米和親条約では、アメリカ船に寄港をゆるし薪炭や食料を与えるというだけで、通商は禁止されていた。外国から見ればこれでは真の開国とはいえない。ハリスは通商交渉を始めるため何度も江戸出府の要請を続けたが、徳川斉昭らをはじめとする攘夷論者の反対にあい、なかなか許可がおりなかった。

ペリーの場合と違って、ハリスは単身下田に住んでいるだけであり、軍事力を持っているわけではない。そのころアメリカ東インド艦隊は、清国でのアロー号事件を契機とする戦争に参戦していて、ハリスに加勢する余裕はなかった。 幕府は強硬な態度のハリスを慰撫するために芸者を提供したこともあったが、かえって、女性に潔癖なハリスの不興を買ったという。この芸者については「唐人お吉」の物語として知られている。ただし史実とはかなり異なるともされる。(ちなみに「お吉」と呼ばれた女性は日本人である。「唐人」は多く中国人をさすが、一般的に「外国人、異人」という意味でも使われた。お吉は異人と交わった穢らわしい女という侮蔑的な呼称を与えられたのだろう)

安政4年(1857年)5月、ハリスのたび重なる要求に幕府が折れて日米貨幣交換レートの改正や領事旅行権、領事裁判権などを定めた「下田協約」が結ばれた。ついで、7月19日、アメリカの軍艦ポーツマス号が下田に入港したのを機に、ハリスは江戸行きを改めてつよく要求した。軍艦で江戸湾に入り込まれることを怖れた幕府はやむなくハリスにこれを許し、10月21日、ハリスは江戸城に登城して将軍徳川家定に謁見をはたした。

こうしてハリスは幕府中枢と接触することに成功し、日本との通商条約の締結をつよく促した。老中首座・堀田正睦らも、隣国の清がイギリス・フランス連合軍に戦争をしかけられている(アロー戦争)現状などをかんがみて、ここでアメリカとの交渉を開始することはやむを得ないと判断した。ただし事実上はハリスが将軍に謁見したことをもって、日本が自由貿易の開始を認めたようなものだった。

そして、ハリスは全権に任じられた下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震 (いわせただなり) と15回もの交渉を重ね、その年の12月までには条約草案が完成した。

この日米修好通商条約は、日本側に関税自主権がなく、アメリカに領事裁判権を認める不平等条約だった。

この条約に関する朝廷の勅許を求めて、堀田正睦は安政5年(1858年)2月、岩瀬忠震らを伴って上京したが、勅許を得ることはできなかった。6月に清でアロー戦争が休戦になるとハリスは軍艦に乗って神奈川沖に行き、即時調印するようせまった。堀田の後任で大老となっていた井伊直弼(いいなおすけ) の決断により、幕府は6月19日、勅許なしで日米修好通商条約の締結に踏み切った。そしてこのことが全国の尊王攘夷派を刺激し、また将軍継嗣問題もあわせて、幕政に対する世の非難が高まった。これに対して井伊直弼は「安政の大獄」という非常手段に出るのである。

日米修好通商条約の締結により、ハリスはそれまでの下田領事館を閉鎖し、安政6年(1859年)6月8日に江戸の善福寺に公使館を設置して初代の駐日アメリカ公使となったのである。

通商条約締結後、攘夷派志士たちによる外国人襲撃事件が頻発し、ハリスの右腕となって活躍していたヒュースケンも、万延元年(1860年)12月4日に薩摩藩士らに襲撃され命を落とした。 しかしハリス自身はその後も公使としての任務を続け、江戸開市延期に理解を示して本国政府との調整をはかるなど、日本の開国をスムーズに進めるために尽力したといえる。

ハリスは外交姿勢こそ強硬な態度を保持し続けたが、元来あまり丈夫な身体ではなかった。また生涯独身だった。 文久2年(1862年)に4月に病気を理由に職を辞してアメリカに帰国、フロリダで療養生活にはいった。そして1878年2月25日に74歳で世を去った。

PHOTO

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 (善福寺入口。奥行き方向が北(六本木方面))

 (善福寺中門(山門)。蒙古来襲のとき、亀山天皇の勅使を迎えた門で、「勅使門(ちょくしもん)」ともよばれる)

 (本堂の前に立つ、アメリカ公使タウンゼント・ハリスのレリーフ)

 (このレリーフは日米修好通商百年を記念して再建されたもの。1936年に日米協会によってハリスを記念する碑が建てられたが、太平洋戦争中は土中に埋められていたという)

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