江戸

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「薩摩藩上屋敷跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

薩摩藩の江戸屋敷はここ三田の上屋敷のほか、中屋敷(幸橋門内)、下屋敷(高輪)、西郷・勝の会談が行われた蔵屋敷(田町)などがあった。なお江戸初期においては、江戸城に近い幸橋門内(現・内幸町)の桜田屋敷のほうが上屋敷だった(大名家の上屋敷、中屋敷などの区別は時期によって変わることがある)。

嘉永6年(1853年)、ペリーが来航したその年に薩摩本国から、島津斉彬 (しまづなりあきら)の娘(実際は従妹を養女にした)・篤姫 (あつひめ)が13代将軍家定に輿入(こしい)れするために江戸入りした。篤姫はここ薩摩藩上屋敷に入り江戸暮らしを始めたが、安政2年(1855年)10月に安政の大地震が起こって屋敷が倒壊したため、渋谷の別邸に移った。

なお、外様大名の女子が将軍正室となることに反対する声も多く、婚儀が行われたのは、安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕(このえただひろ)の養女になった後、12月18日のことだった。

篤姫がはじめて薩摩藩上屋敷に足を踏み入れてから15年後、京の都では朝廷が日本の政治の主となることを宣言する王政復古の大号令が発せられた。西郷隆盛は守旧派を一掃し徳川家を武力討伐に持ち込むため、江戸で浪士たちを集め、放火や略奪行為などをさせて旧幕府側を挑発した。敵方から先に手を出させて討伐の大義名分を得るためである。この西郷のもくろみは図に当たり、江戸市中の警備を担当していた庄内藩らは薩摩藩邸(当所)を取り囲み、焼き討ちにした。なお、このとき幕府側の攻撃の犠牲となった薩摩藩士たちは、大円寺(現在は杉並区和泉に所在する)に葬られている。

この事件はすぐ京都に伝えられ、在京の旧幕勢力にも主戦論が広がり、軍を出動させることになった。こうして鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切られたのである。

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 (現在はNEC本社ビルがそびえ立つ薩摩藩上屋敷跡。NECのビルがある一画は1ヘクタール強の面積であるから、薩摩藩邸はその10倍近い広さがあったことになる)

 (「西郷吉之助書」とあるが、これは同名の通称を持った西郷隆盛の孫にあたる人物。この碑が設置されたのは1991年のこと)

 (左下にある大きな「薩州」の文字の場所が薩摩藩上屋敷。上の方の「田町駅」に接した「薩州」は、西郷隆盛と勝海舟の会見が行われた薩摩藩蔵屋敷(※左の案内板は「西郷南洲・勝海舟会見の地」に設置されている))