会津

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「松平家墓所」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

会津藩の初代藩主は、3代将軍・徳川家光の弟(異母弟)の保科正之。その子・正容(まさかた)のときに保科から松平姓に改めた。その後松平家当主は養子を何代かはさんでいるため、9代藩主の松平容保は直系ではない。容保の血縁の先祖は、水戸藩の初代藩主・徳川頼房となる(頼房は家康の11男)。

戊辰戦争で、薩長土肥を中心とした新政府軍の攻撃を受け、悲劇的な最後を遂げた会津藩だったが、その運命の発端は、文久2年(1862年)閏8月に、容保が京都守護職に就いたことにあった。

京都守護職は、攘夷派の過激浪士たちが跋扈していた京都市中の治安を守るために設置された役職である。当初、藩家老はじめ容保自身も、おもに財政面の理由から就任を固辞していたが、政事総裁職の松平春嶽が、「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」との会津松平家の家訓(藩祖・保科正之が定めた「会津家訓十五箇条」)を持ち出し、無理やり承諾させてしまったという。

守護職となった容保は、配下に組み入れた新選組などを使って治安維持にあたり、尊攘派を弾圧し幕府を補佐する立場となった。

こうして最後まで徳川幕府と運命を共にすることになった会津藩は、江戸開城して実質的に幕府が消滅した後も旧幕府勢力の拠り所となり、新政府軍からの敵意を一身に受けて、絶望的な戦いを強いられることとなった。

容保は明治26年(1893年)まで生き延びたが、会津戦争のことについてはほとんど語ることはなかったという。

PHOTO

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 (県道・湯川大町線に松平家墓所の入口がある)

 (案内図)

 (墓所へは比較的けわしい上り階段がつづく)

 (亀の背に乗った松平容保の碑石。松平家は代々神道形式で祀られている)

 (廟所の最も奥まったところに9代・松平容保の墓がある)