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レオ氏郷南蛮館

(れおうじさとなんばんかん)

会津若松市大町1丁目

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城下町・会津の基礎を築いた戦国武将・蒲生氏郷の資料を集めた展示館。「レオ」とはキリシタン大名・蒲生氏郷の洗礼名。

MAP

「レオ氏郷南蛮館」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY & DETAILS

蒲生氏郷(がもううじさと)は近江・日野出身の戦国大名。年少のころに信長のもとに人質に出されたが、信長は氏郷の才を高く評価し、自分の娘・冬姫を嫁がせた。信長亡きあと、氏郷は秀吉に臣従した。伊勢松坂(松阪)城主となり城下町建設を始めたが、氏郷の力を恐れた秀吉によって、陸奥(会津)地方に転封させられてしまった。

氏郷は、会津42万石(のち92万石)の主という大身にはなったが、「たとえ大領をもっても、陸奥(会津)のような田舎では本望を遂げられない。小身でも、都に近ければこそ天下をうかがうことが可能なのだ」と嘆いたという。

実際、氏郷は戦場にあっては数々の武勲をあげ、経済の才、城下町の経営にもすぐれ、風雅にも明るく兵や民からはその人柄を慕われるという、まさにオールマイティな武将で、天下人たる器量を十分に備えていたといえるだろう。

しかし、会津に「左遷」された氏郷は、めげることなく自らの才をここでも遺憾なく発揮し、戦に強い城下町の建設に取りかかり、また日野・松坂の商人を招き、商業や手工業の興隆につとめた。漆塗り、酒造り、茶道など会津の文化の基礎を築いたのは氏郷である。

文武にすぐれた多才な氏郷であったが、文禄元年(1592年)の文禄の役で肥前名護屋へ出陣し、その陣中にて発病したといわれる。文禄4年(1595年)2月7日、京都で死去。享年40という若さだった。

その遺骸は京都・大徳寺に葬られ、会津の興徳寺には遺髪が納められた五輪塔がある。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 (レトロな外観。1階は民芸品ショップで2階が資料室)

 

 

 (道路向かい側のコンビニも城下町にふさわしい外装)