会津

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「鶴ヶ城」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

鶴ヶ城は、若松城、会津若松城とも呼ばれる。もとは南北朝時代にこの地方を支配していた蘆名(あしな)氏の建てた黒川館(黒川城)が起源。戦国時代の後期、蘆名氏と抗争を続けていた伊達政宗は、天正17年(1589年)摺上原の戦いで蘆名義広を破って、会津を手に入れた。しかし、これが豊臣秀吉が出していた「惣無事令(大名同士の私闘の禁止)」を無視するものであったため、秀吉はこれを咎め、結局会津の地は、天正18年(1590年)の奥州仕置によって蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられることとなった。

会津の主となった蒲生氏郷は、黒川の地名を自らの郷里の神社にちなんだ名の「若松」と改名し、城下町を整備するとともに黒川城の大改築を行い、七層の天守をもつ近代的な城郭に生まれ変わらせた。(「鶴ヶ城」の名は氏郷の幼名「鶴千代」から付けられた)

蒲生氏郷亡きあとは、嫡子の蒲生秀行が継いだが、お家騒動のため改易され、代わりに越後から上杉景勝が封じられた。しかし関ヶ原の合戦で西軍に味方したために景勝は米沢に追いやられ、会津は再び蒲生家のものとなった。その後、賤ヶ岳の七本槍で有名な加藤嘉明が入り、最終的に、会津地方と鶴ヶ城の主には、徳川家光の弟(庶弟)である保科正之(ほしなまさゆき)(のち松平と改名)が任じられ、以後幕末まで松平家の治世が続くことになった。

幕末期、江戸をおさえた新政府軍は、さらに旧幕府勢力の中心である会津藩を攻めるため北上、慶応4年(1868年)8月21日に母成(ぼなり)峠を突破し、翌々日には会津城下に殺到した。会津藩は藩主・松平容保(かたもり)を中心として鶴ヶ城に立てこもり、徹底抗戦の気概を見せたが、同盟していた奥羽列藩が次々と敵の手に落ち、鶴ヶ城も1カ月後の9月22日、ついに新政府軍に降伏した。

その後、鶴ヶ城は明治7年(1874年)に解体された。本丸にあった「御三階」の櫓は既に阿弥陀寺に移築されていたため、当時の姿をしのぶことができる。現在の天守は昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート製で復興されたもの。

PHOTO

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 (国道118線(神明通り)沿いに立つ「若松城跡」碑)

 (天守西南側より)

 (本丸を守る頑丈な鉄門(くろがねもん)

 (鉄門を通って本丸の中心へ)

 (天守西側より)

 (天守閣最上階の眺望案内板)

 (天守閣から北側をのぞむ)

 (彼方に雪をいただく磐梯山。手前に白虎隊が自刃した飯盛山が見える)

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