会津

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「飯盛山」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

白虎隊は、16歳前後の青少年によって組織された予備兵力。彼らは正規兵の見習いという身分だったが、新政府軍が会津城下を目指して進撃を続けるなか、経験も武器も不十分なまま実戦に加わらざるを得なかった。

慶応4年(1868)8月23日、滝沢本陣に待機していた白虎隊は、援軍を請われ、戸ノ口原(とのくちはら)の戦いに参加したが、新政府軍の圧倒的な攻撃に押されて敗走、飯盛山へ逃れた。

そこで、彼方に望む鶴ヶ城周辺から黒煙が上がっているのを見つけ、「もはや御城は落ちた。我らも会津武士らしくいたそう」と、20名がうちそろって自刃をはかった。(飯沼貞吉(いいぬまさだきち)のみが生き残る)ただしその時点では鶴ヶ城は落城していなかった。(会津藩の降伏は明治元年(1868年)9月22日、なお慶応4年9月8日に「明治」に改元された)

隊士たちの遺骸は、当初埋葬することもゆるされず、地元の世話人によって妙国寺に仮埋葬されたあと、明治2年にこの飯盛山中腹に合葬することが許可された。

飯盛山と白虎隊の悲劇は、戊辰戦争で会津藩が味わった苦難の象徴として、現代に語り継がれている。

PHOTO

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 (会津若松駅から東へ向かい、市街地がとぎれたところに飯盛山がある。飯を盛ったようなかたちをしているところから名づけられたという)

 (飯盛山への登り口。階段がつらい人にはエスカレータもある)

 (石段の途中から)

 (白虎隊の碑の前では、白虎隊の剣舞が行われる)

 (記念碑「嗚呼忠烈白虎隊」の文字は、松平容保の孫にあたる松平保定による)

 (スピーカーからは、古賀政男「白虎隊」のメロディーが流れ、それに合わせて女性が剣舞を披露する)

 (会津戦争で自刃、戦死した女性200名余を悼んで建てられた「会津藩殉難烈婦碑」)

 (白虎隊士の墓)

 (飯盛山から望む鶴ヶ城。肉眼で見るとはるかに小さく見える。白虎隊士たちは、城の周辺から煙があがっているのをみて、落城したと勘違いしてしまったのだ)

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