気まぐれ人物伝
かずのみや
ちかこないしんのう
弘化3年閏5月10日〜 明治10年9月2日
(1846.7.3〜1877.9.2)

略歴

仁孝天皇の皇女(8番目の娘)として、京都に生まれる。[弘化3(1846)]孝明天皇の妹(異母妹)でもある。

幕府は、和宮を将軍家茂の正室に迎え入れたい(降嫁)との願書を朝廷に上奏。孝明天皇は幕府が攘夷実行することを条件にこれを受諾。[万延1(1860)]

16歳の和宮は御所を発ち、中山道経由で江戸に向かう。花嫁行列の長さは50kmにおよんだという。翌月江戸に到着。[文久1(1861)]

和宮と家茂の婚儀が執り行われる(文久2年(1862年)2月)。嫁・姑の関係であった、前将軍徳川家定の正室・天璋院篤姫とは、さまざまな確執があったが、のち和解した。

孝明天皇による攘夷祈願の行幸の供をするため、夫の家茂が上洛。和宮は無事を祈って増上寺にお百度参りをする。5カ月後家茂は江戸に戻る。[文久3(1863)]

家茂は、第二次長州征伐の総大将として出陣したが、やがて大坂城で病没。和宮は落飾し名を静寛院宮と改める。[慶応2(1866)]

戊辰戦争が始まり、官軍優位の状況のなかで、徳川家の存続と前将軍・慶喜の助命嘆願のため、朝廷や官軍司令官に対し、手紙を書く。[慶応4(1868)]

江戸城明け渡しの決定にさいし、旧幕臣の暴発を抑えるため、「徳川家のために今は恭順すべき時」と説く。[慶応4(1868)]

京都へ帰り、父・仁孝天皇の御陵を参拝。[明治3(1870)] 4年間京都に居住したあと、ふたたび江戸(麻布)に住む。

脚気を患い、その治療のため箱根・塔ノ沢温泉で療養中に死去。享年32。[明治10(1877)]

生涯

和宮様、風雲の時代にご誕生

やんごとなき帝(みかど)のお子としてお生まれになりながら、時代が生んだ運命の潮に呑みこまれ、徳川家などという関東の田舎侍の家に嫁がねばならなかった和宮様。それでいて徳川が滅びそうになると、ご一身を賭して嫁ぎ先の家のためにお尽くしなさった和宮様。宮様はほんにお優しく麗しくおいたわしい方であらしゃりました。

宮様は、仁孝天皇(にんこうてんのう)の8番目の皇女として、弘化3年(1846年)閏5月10日、御所近くの橋本家でご誕生なさいました。橋本家は和宮様の母君・観行院(かんぎょういん)様(橋本経子)のご実家です。宮様はお小さいころより観行院様の愛情を存分に受けられ、侍女たちにかしずかれて、すくすくとお育ちになりました。

宮様は、お六つになられましたとき、代々親王家をつとめる由緒ある有栖川家の王子・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)様とご婚約なさいました。もし平穏な世なれば、宮様は生まれ育った京の都で、皇族同士、雅びで恵まれた暮らしを全うすることができたはずです。しかし宮様がお生まれになられたときには、激動の時代の前触れとも言うべき怪しき風がひゅーひゅーと世に吹き始めていたのでございます。

すでに寛政、文化のころ(1800年前後)より、オロシヤやエゲレスの船が日本の沿岸に出没し、通商や交流を求めてきたりしていたのです。鎖国政策を続けていた幕府は当初、これらの外国船に対して、打払令を出して追い返しておりましたが、清国でアヘン戦争が起きると、「紅毛人を怒らせるとヤバイぞ」と警戒するようになり、薪、炭、食糧を適当に持たせてお引き取り願い、とにかく彼らとなるべく関わりをもたない方針でいくことにしたのです。

しかし、ついに嘉永6年(1853年)6月3日、朝廷の人々のあいだで「天狗男、禽獣、ケダモノ」とも呼ばれていた恐ろしいペルリがやってきて、鎖国日本の扉を強引にこじ開けようとしたのであります。 4隻の軍艦を率いてやってきた天狗ペルリは、「いま国を開かな、アンタらこの先どうなるかわからへんで」などと脅し、メリケン国大統領フィルモアからの手紙を幕府に押しつけて、「来年また来るさかい、ええ返事聞かせてや」と捨て台詞を吐くように帰っていきました。こちらからおいでやすとも言わへんのにほんに勝手な夷人どもです。


(和宮様がお生まれになったご実家跡)

幕府、夷人に屈して開国する

幕府老中筆頭の阿部伊勢守殿は、この一大事に際して日本の外交方針をどうすればいいかということについて、それこそ幕府高官から諸藩の大名から長屋の八つぁん熊さんにいたるまで、「アナタはどう思いますか?」「キミはどうかね?」「おまいはどうだ!?」などと、意見を聞きまくったのです。
後で考えると、これがいけなかったのでした。
こんな大事件があってもこれまで通りこの国のことは幕府に任せよ、と強気の態度でいればよかったのに、妙に民主的になったばかりに、これまで幕府に遠慮して畏まっていた外様大名や旗本御家人や一般武士までが、「なんだ、オレたちもモノを言っていいのか」と急に胸をそらすようになったのです。
そして、これをきっかけにして、国を開いて外国と付き合うべきか(開国)、はたまた外国を打ち払う(攘夷)べきかという論争が国中に拡がっていきました。

日本人の大半の人は、夷人などという得体のしれない者がどんどんと日本に入ってくれば、この国がどんなことになるかわからないから鎖国を守るべきだと考えていました。ですから攘夷派の勢力が日増しに高まっていったのです。幕府内で攘夷派の先頭に立っていたのが、水戸のご隠居こと徳川斉昭公でした。そして、京都の朝廷もむろん攘夷の考えでした。帝(孝明天皇)ご自身がたいへん夷人をお嫌いさんであらしゃったのでございます。

そうこうしているうちに天狗ペルリはすぐにまたやってきました。今度は船の数を7隻に増やし、ますます居丈高になって、「こないだの返事どないなった? えらい思いしてやってきたワシらの苦労を無にするつもりやないやろな」と恫喝し、日本に強く開国をせまりました。あれからどうすべきかと頭をかかえていた老中の阿部殿は、天狗の脅しに負けて、ついに国を開くことにし、日米和親条約を結んでしまいました。

こうして日本は鎖国を破って開国し、さらにそのあと領事としてやってきたメリケン人のハリスとやらにも、「早う、わてらと通商条約結びなはれ。さもないとこの国は終わりや!」などとさんざん脅され、大老井伊直弼(いいなおすけ)は朝廷から勅許が出ないうちに、日米修好通商条約を結んでしまったのでした。そのうえ井伊大老は、将軍家定の後釜として開明的な諸侯たちの推す一橋慶喜を退け、「能力より血縁が重要だ」として紀州和歌山藩の徳川慶福(よしとみ)(紀州出身といっても江戸で生まれ育ちはったお子どす)を据えてしまったのでした。
さらに自分のやり方に反対する人間たちを片っ端から捕らえて獄に送り込み、福井藩の橋本左内や長州藩の吉田松陰らを死罪にしてしまいました。英知を集めて国難を乗り越えねばならないときに、貴重なすぐれた人材を自分の手で葬り去ってしまったのです。なんという愚かなことでしょう。

いえ、それだけならまだしも、もっと許せないことを井伊掃部守直弼は始めました。こともあろうに、帝のお子であらせられる和宮様と徳川慶福変じて将軍となった徳川家茂はんのご縁談という、とんでもない陰謀を思いついたのです。
これは、開国してから朝廷の力がだんだん高まってきて、朝廷と結びついた尊皇攘夷の勢力が大きくなり、幕府が押され気味になってきたため、天皇の皇女を将軍家のお嫁としていただき、縁者の結びつきによって幕勢を回復させようという、まことにあさましい思いつきなのでした。

しかし悪いことは長続きしないものです。強引なやり方で世を翻弄した井伊大老にはまもなく天罰が降りました。尊皇攘夷の志高い水戸藩の浪士たちに桜田門外で討ち果たされ、その首を取られてしまったのです。
幕府内は大さわぎとなり、一方それまで井伊にいじめられていた人々は、やんややんやと大喝采し喜びにわきました。
しかし宮様の縁談話のほうは、その後も引き継がれ、老中のトップとなった安藤対馬守のとき、正式に朝廷に申し入れがされたのでした。

宮様、徳川への降嫁をご承諾

そのころ宮中のほとんどの方にとっては、関東というのは都からはるか離れた、それこそ外国のようなところでございました。そしてそこを根拠としている武家というものは、まことに無粋な存在でありました。さらに近頃ではケモノのような毛むくじゃらのみにくい夷人たちが近くをウロウロしているというではありませんか。そんなところへ宮様がお嫁にいくなどとんでもない話。

最初にこの話をお聞きになった和宮様は、もちろんたいへんな驚きようで、たいそうおむつかりあそばされ、お兄様の帝(孝明天皇)にも何とかお断りするよう涙ながらにお訴えになりました。ご生母の観行院様も、「許婚の有栖川さんがいらしゃりますのに、その縁談を反故にして賤しいあづまゑびすの所へ宮さんを嫁かせるなど、そないなこととてもできまへん! あきまへんえ!」といたくご憤慨になったことでございました。

その他大勢の朝廷の方々も皆々そのようなアホ話は相手にしなかったのですが、どういうわけかいつの間にか、宮様が降嫁(臣下である徳川家への嫁入り)することに賛成する雰囲気が高まっていったのです。

なぜそんなことになったかというと理由は簡単で、要するに幕府からお金がどんどんと送られてきたからなのでした。このころのお公家さんたちはみな大貧乏で、お金がのどから手が出るほどほしかったのです。
天下の御政道を司る幕府が悪徳商人のようになりはて、「へへ、これは少のうございますがお納めになってくださいやし。その代わりお嬢さまはぜひとも手前どものほうへ…。ぐふっ、クククッ」と卑屈な手つきで小判の箱を差し出すと、お公家様たちは「徳川屋、こなたもえろうワルやのぅ、まぁそないいうなら仕方おへんな、おほほほ、おほほっほほおっ!」とみな黄金の輝きに目がくらんで、最初の意見を変えてしまったのでした。

さてやんごとなき帝のほうはと申しますと、例の岩倉具視−−こちらは公家といってもいちばん端っこにかろうじてぶら下がっているような貧しく汚ならしいバクチ打ち−−が、畏れ多くも帝に対し奉り、「和宮様を徳川へおやりになる代わりに、攘夷の実行を幕府に約束させるということになさりませ」と入れ知恵をしたのでございます。まったく宮様を取引の材料にするような、よくもあくどいことを思いついたものです。

帝といえば、高天原の御世より連綿と続いてきた日本国を守ることを至上の御使命とおぼされてきたお方でございます。可愛い妹を卑賤な武家に嫁がせることは不本意でしたが、それ以上に外国の侵略からこの国の清浄を守らねばならないという強い思いを抱いておいででした。
帝は日本の国のために、ついに幕府の申し出を受けることをお決めあそばされ、和宮様に、「もし徳川との縁組みの話を断れば、自分は譲位(天皇をやめる)し、そなたも尼にならねばならぬ」と言い放たれました。宮様はあまりに強い帝のお言葉に驚き衝撃を受けられましたが、そこまでおっしゃるのならもはや致し方ないと御覚悟を決められたのでございます。

日本最大級の花嫁行列

文久元年(1861年)10月20日、江戸に向かう和宮様の超特大ロングサイズの花嫁行列が、母君の観行院様のお乗り物や女官・庭田嗣子らの供どもを飲み込んで桂御所を出立いたしました。
江戸へは、中山道をたどっての道中となりました。東海道の方が平坦で旅をしやすいのですが、途中に大きな川が幾本もあるものですから、川留めで「滞る」ことが縁起が悪いと嫌われ、江戸と上方を行き来する婚礼の旅は中山道を行くことが多かったのでございます。

宮様はおつらい旅に先立ち、お歌をお詠みあそばされました。世のため人のために我が身はどうなろうとかまわないとのお覚悟を示されたのです。

「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」

また、旅の途中、はらはらと落ちてきたもみじを拾われた宮様は、またお歌をおつくりになりました。

「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」

皇族としての誇りと凛(りん)としたご決意の中に、運命に翻弄されて密かに涙する切ない女心が織り込まれた見事なお歌ではございませんか。もみじ葉は人の「手」になぞらえられます。人から離された手。「人」とは懐かしい都の人々のこと、いや本当はご婚約者だった有栖川宮様のことをさしているのでないでしょうか。なんともおいたわしいこと。その和宮様はこのときわずか16歳でございました。

一方、幕府のほうでは、「我らは天皇家と親類になるのだ。ますます偉くなるのだ。皆の者よ幕府ご公儀をもっともっと尊敬するのだ!」と、みずからの権威を誇示し宣伝するため、和宮様の花嫁行列を最大限派手に豪華にしたのです。
花嫁行列はなんと総勢6000人を超え、その長さは50キロメートルにも及び、ひとつの宿場を通り過ぎるのに3日もかかることもありました。
沿道には幕府の手配で厳しい警備が敷かれました。幕府は和宮様降嫁に反対する尊皇攘夷派の妨害工作を恐れていたのです。また、事前の道普請はもちろんのこと、薄汚い家屋は取り壊されたり立て直しを命じられたりしました。またあさましい犬っころなどは行列の周りをうろついたり吠えかかったりしないよう、街道から遠く離れたところに閉じこめられました。 江戸にはいる直前の板橋宿では、街道沿いに「縁切り榎木」という縁起でもない名前の木が立っていたため、わざわざ街道を回避するための道もつくられました。
そして、京都出立から25日をかけて、ようやく江戸の街に着いたのでございます。

宮様をはじめ、お母上の観行院様、お付きの女官たちは、住み慣れた都とはまったく風土も風習も異なる東国で、その武家の棟梁の後宮で果たしてうまくやっていけるか、内心は大きな不安があったことでしょう。とりわけ宮様にとっては、大奥のこともさることながら生涯の伴侶となる将軍家茂とはどのような人なのか、粗野な武家の棟梁なのですから、どんな乱暴な不作法な恐ろしげな人間かもわからぬではございませぬか。

意外にハンサムだった家茂公♪

ところが実際にお会いしてみると、征夷大将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)公は、ごくふつうの若者でございました。和宮様と同じ年の同じ月(弘化3年閏5月)に生まれたまったくの同年代の青年です。これも何かの縁というものでしょうか。そして面立ちは…超イケメンとまではいきませんが、目元すずしげな素直そうな好男子で、和宮様は初対面でいたくお気に入りになったようでした。
家茂公は故郷の京都を離れてはるばる江戸までお嫁入りしてきた和宮様のご心中をよくお察し申し上げて細やかに気を遣われ、お優しくなされたのでした。宮様はゲンキンにももう京都のことなどすっかりお忘れに、はならないでしょうが、とにかく家茂公のことをどんどんお好きになっていかれたのです。
そして年が明けて文久2年(1862年)2月に、和宮様と徳川14代将軍・家茂公の婚儀が盛大に行われたのでした。ほんにめでたしめでたしでございます。

さて、このように家茂公との関係はまことに良かったのですが、大奥での暮らしは宮様にとってもお付きの女官たちにとってもご苦労の連続でございました。最大の問題は大奥のドンとして君臨していた天璋院(篤姫)(てんしょういん あつひめ)でした。天璋院というのは、薩摩島津家の分家の娘から成り上がって、13代将軍家定の正室(御台所)となり、ずるずると江戸城大奥にもぐりこんだ女です。14代将軍家茂公は、紀州家から将軍家へ養子に入ったので、先代将軍の正室である天璋院は「母」にあたります。つまり天璋院は和宮様にとっては姑。天璋院は自分よりもはるかに高い地位にある内親王・和宮様に対し奉り、単なるヨメ扱いをしたのです。

たとえば和宮様が初めて天璋院に御挨拶に行かれたおり、身分のいやしい天璋院はなんと自分は上座でふんぞり返ったまま和宮様を迎え入れ、しかもお座布団も無しでタタミの上に直にお座りあそばせ参らせたのでございます。なんという無礼極まりないことでしょう。もしこれが逆に宮中であれば、東国の武辺者のヨメの天璋院など、内親王様と同じ場所で息をすることさえ許されず、庭の隅っこで顔を地中にぐりぐりめりこませるくらい這いつくばっていなければならないのです。 そのほかにも天璋院は無理やり大奥の秩序を守ろうとして、なにかと和宮様につらくあたったのでした。「京都からの人々は何事も京風のままで」との事前のお申し入れも無視されました。

そんな大奥の人間関係に悩み憤り戸惑われる和宮様に対し、家茂公はやさしく接してさしあげました。和宮様にとっては家茂公の存在は慣れない江戸暮らしのなかで大きな安らぎでした。むろん家茂公は側室など持ちませんでした。和宮様と家茂公は歴代の徳川将軍にはないほどに純で仲むつまじいカップルになっていたのです。

しかし…そんなささやかな幸せも長続きはしませんでした。朝廷は江戸にいる家茂公に対し、「攘夷を実行するために京までのぼってきなはれ」と命じたのです。和宮様と家茂公の婚儀が行われてわずか1年のときでありましたが、すっかり家茂公をお心の支えにされていた宮様にとって、上京する家茂公とのしばしの別れはたいへんおつらいものとなりました。宮様はまるで町娘のような健気なお心持ちになられ、家茂公のご無事ご帰還を願って芝増上寺の黒本尊(阿弥陀如来)のお札を勧請なさり、そのお札をお祀りしてお百度参りをなさいました。

幕府、追い詰められる

こんなことになったのも、過激で小賢しい長州の者どもが外国嫌いの公家をそそのかし、朝廷を動かしていたからなのです。長州にあやつられた公家たちは、上京した家茂公に対して攘夷の決行を強くせまりました。将軍後見職の徳川慶喜はじめ幕閣は返答に窮したあげく、ついに(文久3年)5月10日をもって攘夷を実行すると約束してしまい、諸藩にもその旨を知らせました。
もちろん幕府も諸藩も本気で外国と戦うつもりのあるものはありません。まともな判断力のある人間なら、いまの日本の貧弱な軍事力で、外国の艦隊に打ち勝てるなどと考えるわけがありません。
ところがひとりまともでない長州藩は、約束の期日が来ると同時に外国船めがけて威勢良く大砲を打ち込みはじめてしまいました。当然外国は怒り心頭です。その直後に反撃を喰らって砲台は打ち壊され、さらに翌年には連合艦隊が編成されて下関に派遣され、長州はコテンパンにやられてしまいました。

長州藩は先の文久3年(1863)の八月十八日の政変で、京都から追い出されておりましたが、翌元治元年には池田屋事件に怒り狂った藩士たちが大挙して京都にのぼり、畏れ多くも御所に発砲するという暴挙に出ました。世に言う禁門の変です。
しかし長州は、この禁門の変で薩摩や会津を中心とした御所守備隊にボロボロに敗れ、軍は故郷に逃げ帰りました。そしてその直後に外国の連合艦隊にもコテンパンにやられ、長州は朝廷の敵となり幕府からも征伐されることになりました。まったくの孤立無援で藩は滅亡寸前の状態となったのです。
これは文字どおり自業自得というものです。天に唾するような行為を天がお許しになるはずがありません。まったくよい気味です。こんな風に悪し様に言いたくなるのも、長州が暴れまくったせいで、和宮様の大切な家茂公がお命を縮められたからなのです。

ところが、禁門の変の直後に長州征伐(第一次)が決まると、それまで幕府に楯ついていた長州の過激な態度が一変し、ネコのように従順になりました。そして京都に攻め入った責任者である3家老を切腹させて幕府に謝りました。
このとき、幕府は長州藩をつぶしておけばよかったのです。いや、本当はつぶしたかったのですが、それをはばんで、3家老の切腹で許すという甘い処分を下したのは、薩摩の西郷という下っ端の武辺者でした。
このとき幕府は、薩摩の行動はどうもおかしい、怪しいではないか、ともっと警戒しなければなりませんでした。西郷にはすでにこのとき将来長州の力を借りて倒幕するという狙いがあったのです。そのためには長州藩をつぶしたりせず、その力を将来のために温存しておく必要があったのです。

家茂公とのお別れ

一方、長州藩では元治元年の暮れになって、高杉というボンボンの遊び人が三味線を弾きながら、「見ちょれ。この長州をネコからトラに戻しちゃるけ」と言って無謀なクーデターを起こし、それが幸か不幸か成功してしまい、倒幕派が藩の実権を握り、長州はふたたび幕府に反抗するようになりました。
これに対して幕府は、「また長州のヤツらが刃向かってきやがった、今度こそぶちのめしてやる」と、再度の長州征伐が行われることとなったのです。
そして家茂公は慶応元年の閏5月にこの第二次長州征伐のため、大坂へ出陣されました。家茂公にとってはこれが3度目の西上で、そしてこれが和宮様と家茂公の最後のお別れになってしまったのです。
家茂公は江戸を出立なさるとき、和宮様に土産は何がよいかと聞かれました。和宮様はただ家茂公がご無事でご帰還なされることのみを願っていたのですが、家茂公が重ねてお聞きになるものですから、故郷の京都を懐かしむ宮様は『では西陣を…』とお答えになりました。

慶応元年(1865年)5月16日、家茂公は長州征伐のため江戸城を出立なさいました。幕府開祖の家康公が豊臣家との戦で大坂の陣を指揮されたとき以来の、文字どおり征夷大将軍としてのご出陣となりました。
しかし将軍自らの出馬という麗々しい幕府側の出陣にも関わらず、開戦後の戦況はまったく幕府に不利なものでした。長州は薩摩の協力によって最新の武器を買い入れ、調練された奇兵隊などの活躍によってどんどん幕府軍を打ち破っていきました。一方幕府側は諸藩の藩士たちの寄せ集めで、幕府の命令でいやいやながら戦いに参加していた者ばかりでしたからまったく士気の面で劣っていたのです。
そうした幕長戦争の成り行きが思わしくなかったということも、家茂公のお身体に悪い影響を与えたのでございましょう。
江戸城を出るときからすでに家茂公はあまり健康状態がすぐれなかったといわれていますから、お送りになった和宮様はどれほどご心配になったことでしょうか。そして、和宮様がいだかれたであろう悪い予感は当たってしまいました。

和宮様のもとに帰ってきたのは、家茂公その人ではなく、お土産の西陣織だけだったのです。

「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」

空蝉(うつせみ)とはこの無常の世界、現し世を意味し、蝉の抜け殻も指します。おみ口からこの言葉をお漏らしになったご心中、お察しするにあまりあります。
和宮様と家茂公の結婚生活はわずか4年半で終わりをつげてしまいました。

脚気の病のため大坂城内にて家茂公が亡くなったのは、慶応2年(1866年)7月20日でございました。そして悪いことは続くものです。そのわずか20日後の8月10日には、ごいっしょに江戸城大奥でお暮らしていらっしゃいましたご生母の観行院様もご逝去なさり、さらにその年の12月にはお兄様の孝明天皇も崩御されたのでございます。
和宮様にとってはほんにおつらい年でございました。
しかしながらご気丈な宮様はすでに徳川家に嫁いできたときからお覚悟をはっきりと定められ、ご自分の使命を見極められていたのでしょう。家茂公が亡くなられて落飾され静寛院宮(せいかんいんのみや)と称されるようになった和宮様は、朝廷と幕府の橋渡し役をしっかりとお勤めになり、幕府の最後の時を見守られたのでした。

宮様、徳川家と日本国を救われる!

慶応3年、薩摩と長州は朝廷の岩倉らと組んで王政復古の大号令を発し、将軍慶喜の領地と官職を取り上げること(辞官納地)を命じました。それに対して旧幕臣らが反発、鳥羽伏見の戦いが起こりましたが、新式の武器を揃え近代的な用兵術を駆使する薩長軍に旧幕府軍は押される一方で、岩倉が用意しておいた錦の御旗が淀川の川辺に翻ると、旧幕軍側の士気は一気に落ち、もはや幕府に勝ち目はないと薩長側に寝返る藩も出てきました。こうなると旧幕軍は総崩れです。慶喜は夜陰にまぎれて密かに大坂城を抜け出し軍艦で江戸に逃げ帰りました。慶喜は「江戸で再起を期すため」などと言い訳をしていましたが、よくもまあ幕府のために命をかけて戦っている家臣たちを見捨てておめおめと江戸に帰れたものです。

江戸に帰った慶喜は再起を図るどころか、「自分は謹慎するから何とかよしなに朝廷にお取り次ぎ願い奉りまする」などと勝手極まることを和宮様に頼み入りました。和宮様も内心はあきれ果てておいでだったでしょう。しかしながら形式的には和宮様は慶喜の母にあたります。15代将軍の徳川慶喜は家茂公の養子なのです。家茂公に嫁いできた上は、亡き夫のためにも一命をかけて徳川家を守らねばというご決心を固めておいででした。朝敵と化した徳川家にあって朝廷に一言もの申すことができるのは、ひとり内親王和宮様のみでございました。

和宮様は朝廷に対し、自分の命はどうなってもよいから徳川家に寛大な処分をされるようにという嘆願書をお書きになりました。

「何とぞ私への御憐愍と思し召され、汚名をすすぎ、家名相立ち候やう、私身命に代へ願ひあげまゐらせ候。是非是非官軍さし向けられ、御取りつぶしに相成り候はば、私事も、当家滅亡を見つつ長らへ居り候も残念に候まま、きつと覚悟致し候所存に候。私一命は惜しみ申さず候へども、朝敵とともに身命を捨て候事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致し居り候。心中御憐察あらせられ、願ひの通り、家名のところ御憐愍あらせられ候はば、私は申すまでもなく、一門家僕の者ども、深く朝恩を仰ぎ候事と存じまゐらせ候。」

その使者が京都に到着してまもなく、薩摩の主張によって江戸攻めの軍隊(東征軍)が出発することになりました。和宮様のご嘆願は無駄になったのでしょうか。いえ、そうではありません。
東征軍の大総督は有栖川宮熾仁親王でした。なんと和宮様の幼き日の婚約者です。このような巡り合わせになったのも皮肉な運命ではありましたが、とにかくも嘆願書は親王のもとへ届けられました。親王様はみやびなご皇族であられますからもともと血が出るような争い事は好まないのです。また岩倉はじめ朝廷側の人々も江戸攻撃には乗り気ではありませんでした。皇女である和宮様直々の嘆願があればなおのことです。この御文を読んだ朝臣で心動かされぬ者はたれひとりおりませんでした。それに皇女のおわす江戸城を攻撃し和宮様のお身に万一のことでもあれば、それこそ新政府軍の評判は最初からがた落ちになってしまうことでしょう。

さらに、新政府軍への手紙攻勢はあの天璋院篤姫も加勢しました。天璋院は初めのころこそ和宮様に陰湿ないやがらせをしたりした悪いやつでしたが、幕府が終焉に近づくにつれて最後の幕府徳川を支える同志のような関係になっていきました。もともと和宮様も天璋院も、政略結婚の犠牲者となって徳川家に入ってきたのです。同じような運命を担った人間同士の連帯感が生まれてきたのかもしれません。
天璋院殿(ここからは敬称をつけてあげましょう)は、東征軍の参謀である西郷宛てに手紙を出しました。天璋院殿は薩摩の生まれ、しかもあの西郷が神とあがめていた島津斉彬の養女です。その天璋院殿から慶喜の助命と徳川家存続の嘆願を出されて、端から無視することは士道に照らしてできることではありませんでした。

こうして大奥の実力者である和宮様と天璋院殿のお手紙が、東征軍の総督と参謀にそれぞれぐさっと突き刺さり−−、もちろん表向きには「江戸で内乱になれば外国の干渉を招くから」という理由があったにせよ−−、心を激しく動かされて江戸城の攻撃を取りやめ、慶喜を許し、徳川家を存続させることになったのです。
西郷と勝との対談は…、まあ形ばかりのものでしたでしょう。
「わかりもした。勝さぁの言うように罪なき江戸の民を苦しめることはおいたちの本意ではごわはん」などと格好をつけ潔さをアピールしておりましたが、実際あのようなわずか1、2日の対面で、江戸城攻撃の鉾を収めて急転直下攻撃中止となるはずがないではありませんか。西郷としては少なくともぎりぎりまで江戸城を攻撃するぞという姿勢を見せつけ、新政府軍の面子や威光を保つ必要があったのです。
お命をかけた和宮様のご嘆願は功を奏し、慶応4年4月の江戸城開城を前に、徳川家存続の見通しがつきました。宮様は新政府軍に対していきり立つ城内の旧幕臣たちに対し、「今は朝廷に対し恭順を貫くことが徳川家への忠節の証し」と強く訴え、彼らの暴発を抑えました。

とにかくもこのようにして、東北諸藩をはじめとする旧幕府勢力との戦闘で犠牲者は出たものの、なんとか外国の干渉を防ぎながら明治維新が成り、新政府は少しずつ形を整えていきました。
和宮様は、江戸を戦乱から救い、新しい明治の世を迎える革命を最小限の犠牲で実現させた大きな功労者であることは間違いございません。

和宮様は明治2年に一度京都にお戻りになり、お父上である仁孝天皇の御陵にお参りになられました。また甥にあたる明治天皇にもお会いになりました。そして明治7年に再び東京にお戻りになりました。維新後は、徳川家の人々やかつてのライバルだった天璋院殿とも仲良くお付き合いになっていらっしゃったと言われております。
そして明治10年のこと、和宮様は体調を崩され、箱根の塔ノ沢温泉で療養されていらっしゃいましたが、9月2日にわずか32歳というお若さでお亡くなりになりました。夫家茂公と同じ脚気の病ということでございました…

江戸から明治への激動期に、身を賭して朝廷と幕府の架け橋となり、旧い時代と新しい時代をしっかりと結びつけられた「幕末のプリンセス」和宮様は、この空蝉の世を優雅に力強く生き抜かれたあと、ご自身のご遺言により、増上寺の家茂公のおそばに葬られました。そしていまもご夫婦で仲良くお眠りになってらっしゃいます。


(増上寺にある和宮様の墓塔(特定の日のみ公開されます))


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