気まぐれ人物伝
たかすぎしんさく 天保10年(1839年)8月20日〜 慶応3年(1867年)4月14日

略歴

長州藩士・高杉小忠太(200石取り)の長男として誕生。[天保10(1839)]

松下村塾に入り吉田松陰の教えを受ける。[安政4(1857)]

江戸の昌平坂学問所に入ってまもなく、師の吉田松陰は江戸伝馬町に送られ斬首される。

萩から帆船「丙辰丸」で江戸に向かい、東北遊学する。

幕府使節団に参加して上海へ渡り、西洋文明の巨大さと中国人が置かれている植民地的な現実を見聞する。[文久2(1862)]

建設中の品川英国公使館を焼き討ちにするなど、過激な尊皇攘夷運動を進める。萩に帰って出家し「東行」と号する。

長州藩が下関海峡で外国船を砲撃したが、すぐに反撃を受ける。その後、藩から防衛力の強化を命じられ、奇兵隊を創設する。[文久3(1863)]

藩内の攘夷過激派の暴発を止めるため説得に向かったが、逆に自分自身が脱藩。帰国後、投獄される。その間過激派は京都で禁門の変を起こす。[元治1(1864)]

四カ国連合艦隊との講和に長州藩正使としてのぞみ、彦島租借要求を拒否する。

長州へ戻り、長府・功山寺でわずか80人で挙兵。クーデターに成功して長州藩は再び倒幕派の政権となる。[慶応1(1865)]

幕府の「第二次長州征伐」に対し、司令官として活躍。各地で幕府軍を撃破。[慶応2(1866)]

肺結核のため下関で死去。享年29。[慶応3(1867)]

生涯

おもしろきこともなき世をおもしろく!

数多くの幕末の志士たちのなかでも、もっとも型破りな行動派だった高杉晋作。ここではそんな高杉晋作に親しみをこめて「晋ちゃん」と呼ぶことにしよう^^。

幕末の志士のなかで、晋ちゃんほど自由気ままで大胆不敵で目まぐるしい生き方をした男もいない。 とにかく晋ちゃんの行動は突拍子で誰にも予測できないのだ。尊皇攘夷の旗頭として外国の公使館を焼き討ちにし、将軍の暗殺未遂事件を起こすという過激なテロリストだったかと思うと、急に山にこもり頭を丸めて坊さんになってしまう。その後、藩に引っ張り出されて重役になったのもつかの間、出し抜けに脱藩して牢獄に入れられる。そうかと思えばまた藩の要人として外国との交渉を任せられ、要人になったかと思えば亡命し、また復活してクーデターを起こして藩の実権を握り、また亡命してバクチ打ちの家に転がり込み、また復活して対幕戦の司令官となり…と、もう何がなんだかわからない。頭がどうかなりそうである。

さらには史実かどうかは不明だが、天皇の行列に従っている将軍をからかったり、古事記を朗唱して外国の侵略を防いだりと、とても常人とは思えない行動の記録も残っている。

こんなふうにまったく行動を予測できないから、だれも晋ちゃんを止めたりいわんや命を奪ったりすることはできない。たとえ新選組が本気で晋ちゃんを狙ったとしても、おそらくものすごく性能のよいレーダーではるか先から敵を感知し、異なる次元に逃げ込み、相手は近づくことすらできないだろう。

だれも無謀な晋ちゃんを止められないから、幕末の神様は「これ以上やつを生かしておくと、明治時代がメチャクチャになってしまう」と不安になり、まだ20代後半の晋ちゃんを無理やり肺病にし、維新が来る前に天に回収してしまった。世の中ついでに生きながら、ゲーム感覚で幕府を倒してしまった晋ちゃんは、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と、尻切れとんぼの辞世を残してさっさと旅立ってしまったのだ。

晋ちゃんはON-OFFの極めて激しい男だ。ONのときは鬼神もこれを避くが如くの勢いで、だれも手の付けられない行き詰まった時勢を一人でばりばりと引き裂き、雲霞のごとき幕軍を扇子で追っ払ったりするような大活躍をみせるが、OFFのとき、つまり仕事がないときはもうぐでぐでで全然だめなのだ。朝から晩までチントンシャンと三味線を弾き、放蕩三昧に過ごす生活に陥ってしまう。幕軍を迎え撃つ(第二次長州征伐)前に、愛人の「おうの」といっしょに下関にいた晋ちゃんのもとに、萩から母親と正妻と息子までもが押しかけてきたことがあるが、このときも晋ちゃんは弱りはて、スイッチが切れて相当の期間、思考停止状態になった。

晋ちゃんは極めて「運のいい」男でもある。藩に変事が起こったときにかぎって、牢屋の中にいたり、出家して庵にこもっていたりと、安全な場所でOFFを楽しんでおり、また活躍が必要とされるとすばやくONに変わり、一転きらびやかに歴史の壇上に躍り出るという、「いいとこどり」のオイシイ役柄を演じるのだ。 このような晋ちゃんを評して、晋ちゃんの一の子分だった伊藤俊輔(博文)は、その晩年、晋ちゃんのために、『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し』という有名な碑文を残している。

こんな風に晋ちゃんが気ままに幕末の世を楽しめたのは、長州藩の殿様(毛利氏)がとてもお人好しで気の良い家風を保っていたからである。これが薩摩藩の島津久光だったり、土佐藩の山内容堂だったり(あるいは祖先の毛利元就でも)したら、とても晋ちゃんの身勝手な行動は許されなかっただろう。藩士が藩の意にそむくようなことをしでかしたら原則切腹である。晋ちゃんなどいくつ腹があっても足りやしない。しかし殿様の毛利敬親はいつも鷹揚に「そうせい!」と、家臣の言うことに決して反対しなかった。こうした藩主の気だての良さ(?)が、藩政を執る首脳陣にも伝わっていたにちがいない。

 (高杉晋作誕生地(萩))

晋ちゃん、上海へ!

晋ちゃんは、天保10年(1839年)の夏、長州藩(今の山口県)のわりといいところの武家に生まれた。子どものころから無鉄砲で、自分が正しいと思ったら、相手が大人の武士だろうと関係なく挑みかかっていった。こういう性格が、のちに「幕府など何ちゅうこともないわい」という人を食った態度で、奇想天外な戦略をつぎつぎに成功させていったのだ。

暴れん坊藩士の晋ちゃんが、「志士」への道に入ったきっかけは、同じ萩の町で吉田松陰が開いていた松下村塾に通い始めたことである。晋ちゃんは、松陰の教えを受け、政治、軍事、歴史、さらには詩作などさまざまな分野ですぐれた才能を伸ばしていった。そして外憂の深まる日本国を救うため「尊皇攘夷運動」へ身を投じる覚悟を固めていったのだ。晋ちゃんが幕末の英雄となったのは、ひとえに松陰先生の存在があったればこそだ。

その松陰は安政6年(1859年)、安政の大獄の嵐のなかで江戸に送られ、斬首されてしまった。幕府によって敬愛する師を奪われた晋ちゃんは完全に「鼻輪のない牛」となった。いや晋ちゃんのみならず、松下村塾の塾生たちは、もうこの時点で明らかに反幕、そして倒幕へと明確に意識が向けられたといっていい。

晋ちゃんは文久2年(1862年)に中国・上海に渡った。幕府の使節団募集の話が藩に来たことを知り、その一員にまぜてもらったのだ。この上海行きが、その後の晋ちゃんの生き方に大きな影響を与えた。西洋文明によって築かれた近代的な上海の町や港に出入りする蒸気船群を見て、晋ちゃんは「こりゃぁ、攘夷なんか絶対にムリじゃ!」と一瞬で理解した。そして、西洋人に奴隷のように使われている現地の中国人を見て、「うかうかしちょると日本もこうなるでよ」と、強い危機感を抱いたのだ。

過激な尊皇攘夷へ!

上海から帰った晋ちゃんは、過激な尊皇攘夷運動に走りはじめる。まずは品川に建設中の英国公使館を焼き討ちにした。上海で西洋諸国の力を見せつけられたはずなのに、なぜいまさら攘夷を、と疑問にも思ってしまうが、晋ちゃんには十分な深謀遠慮があった。その根源となっているのは「もう徳川幕府ではダメだ」という確信である。開国するのはやむをえない。日本が生き残る道は開国して大いに西洋文明を取り入れて富国強兵に努めることだけである。しかし外国に媚びへつらっている幕府では、いずれ清国の二の舞になるだけである。こんな幕府は早いとこ倒さなければならないのだ。

(高杉晋作が江戸滞在中よく利用した土蔵相模跡)

晋ちゃんの唱える「攘夷」とは、西洋諸国と今本気で戦うのではなく、あくまで幕府を困らせるための攘夷、つまり挑発なのだ。幕府を挑発し、いやでも長州を中心とした尊皇攘夷派との戦いに持ち込み、倒幕をはたし新しい国を作らなければならない。

一方、長州藩の内部でも、久坂玄瑞(くさかげんずい)を中心とした松下村塾の元塾生や、彼らに後押しされた藩政務役の周布政之助らの方針により、尊皇攘夷の道を驀進していた。久坂玄瑞は晋ちゃんとは松下村塾で双璧といわれた秀才で、吉田松陰の思想面をもっとも忠実に受け継いだ志士である。

その久坂は、京都の反幕府的な立場をとる公家たちに工作し、本気で攘夷を実行しようとしていた。文久3年(1863年)には将軍家茂を江戸から引っ張り出して上洛させ、天皇に攘夷を誓わせるという離れ業を成功させている。当時の孝明天皇が外国嫌いで通っていたことも大きかったろう。

このとき晋ちゃんは久坂らの動きには積極的に関わってはいなかったが、天皇の行列にしたがっていた馬上の将軍家茂に向かって、「征夷大将軍っ!」などとからかうように呼びかけたという伝説がある。将軍も旗本も天皇の供として参列しているため、下手に騒ぎ立てできまいと見越しての暴挙とされるが、もし本当ならとんでもないことである。幕威盛んなころなら、天下人に対する史上最大の無礼のかどで一族郎党どころか藩消滅になっていたに違いない。こんな挿話があるということ自体、当時幕府の威光というものが相当低下していたことを示しているだろう。

さらに弱腰の幕府は、朝廷に対し「(今年(文久3年)5月10日から外国と戦争します」などと約束させられてしまった。諸外国と通商条約を結び開国を推し進めている幕府が今さらそのような暴挙に出られるはずもないが、否とは言えなかったのだろう。桜田門外の変以来、幕府の威信は凋落した。世間は以前のように幕府を畏れなくなり、幕府としては朝廷の力でも借りなければ権威の維持が難しくなっていたのである。

一方、晋ちゃんはひとり我が道を進んでいた。成功の見込みのない攘夷より幕府を倒すのが先決である。そう考えた晋ちゃんは、なんと在京中の将軍を暗殺してしまおうとしたのだ。将軍を殺せばいやでも長州と幕府との戦争が始まる。長州は負けるかもしれないが、少なくとも幕府は今の幕府ではいられない。潜在的な反幕府勢力が結集して新しい世界がつくられるだろうなどと考えていたと思われる。

それにしてもあまりに過激な発想である。そして刺客を何人も集めて実際に実行に移されかけたが、実行犯がドジを踏んだため結果的に失敗に終わった(もし成功していたらどうなっていたのか、想像も困難な歴史のIFである。ちなみに晋ちゃんはその後、島津久光も暗殺しようと考えている)。

晋ちゃん、奇兵隊をつくる!

藩の首脳・周布政之助(すふまさのすけ)は、晋ちゃんの将軍暗殺計画を知っていたがあえて止めることもなかった(こんな家老も他藩ではあり得ないだろう)。ただ、晋ちゃんの過激な方針をそのまま認めることもなかった。尊皇攘夷の運動は大いに進めるが、まだ倒幕の時節ではないというのである。晋ちゃんは、「そしたらワシは、その時期が来るまで10年山にこもる」と言い、なんと武士の象徴であるマゲを落として坊さんになってしまった。いまただちに倒幕はできないにしても他に為すべきこともたくさんあるだろうに、将軍暗殺に失敗した後はもうダルマの如く何もしないなどと、まったくもって極端な志士である。 ともかくも、自分の出番でないことを悟るとすっぱり完全OFFになってしまう晋ちゃんは、頭を丸め萩の山にこもった。このときみずからの法名を「東行」としている。そしてのちに髪を伸ばしてからも髷を結うことなく、ザンギリ頭のスタイルになった。

さて、文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷に攘夷実行を約束した期日が来ても、幕府はもちろん何もしなかった。いや日本中のどの藩も本気で外国と戦おうなどとは思わなかっただろう。が、尊皇攘夷の首領を自任する長州藩だけは、本当にドンパチとハデにやり始めてしまった。下関海峡(関門海峡)を通行中のアメリカやフランスの船に砲撃を加えたのである。最初は威勢よく追い払っていたが、翌月になると怒った外国側が反撃に出てきた。その結果、長州の軍艦は撃沈され、海岸に上陸した兵によって、長州側の砲台は破壊された。このとき、国を守るべき武士は外国勢に対してまったく無力だった。 この期に及んでようやく「これはいかん」と慌てた藩は、晋ちゃんを隠遁先から引っぱり出して、下関防衛の司令官に任命したのだった。

(外国船を砲撃した下関の砲台)

晋ちゃんは、外国の兵が攻め寄せてきたとき、これまでの武士中心の軍隊では役に立たないと見切り、藩主の許しをもらって、藩内にまったく新しい軍隊を創設し「奇兵隊」と名づけた。武士、町民、農民などという封建的な階級の別を問わず、志願する者を隊員に採用するという、制度的には日本初の近代的軍隊の誕生である。奇兵隊は下関に駐留し、おもに外国からの侵略の備えとした。そしてこれ以後、「なんとか隊」という奇兵隊同様の組織「諸隊」がたくさんできた。のちこの軍隊が晋ちゃんの藩内クーデターや幕長戦、戊辰戦争に大いに活躍することになる。

長州藩が京都を追い出される!

さて、文久年間、京都朝廷の攘夷派公家を抱き込んで尊皇攘夷街道をひた走ってきた長州藩は、文久3年8月18日を境にパッタリとその勢いをなくしてしまった。長州藩の暴走を快く思わない勢力が、朝廷クーデターを画策し、長州と仲良しだった公家の三条実美らを朝廷から追放したのだ。長州藩も御所警備の任を解かれて京都を追い出されてしまった。その反長州の中心となってクーデターを主導したのは薩摩藩だった。

薩摩藩は、安政の大獄のころに開明的な藩主・島津斉彬が病死して以来、弟の島津久光が藩の実権を握っていた。下級武士の西郷吉之助、大久保一蔵らは倒幕を見据えた尊皇攘夷指向だったが、藩トップの久光が保守派だったため、全体としては公武合体の立場だった。しかし、薩摩武士たちは皆「こん国を変えていくのはおいたちでごわす」と密かに自負していたため、長州藩が朝廷を牛耳っている現状がおもしろかろうはずはない。そこでガチガチの佐幕である会津藩と手を結び、長州追い落としのクーデターを起こしたのだった。

その後、京都という活躍の場を追い出された長州藩は、なんとか復活を目指し、桂小五郎や久坂玄瑞らが外交交渉に努めたがうまくいかない。そんな中、長州の血気盛んな連中は「天皇のためにがんばってきたワシらが御所を追い出されるなど、どう考えてもガテンがゆかぬ。憎き薩摩・会津の軍勢を排除し、ヤツラに操られた公家どもを追い払い、帝をお救いせんにゃあいけんど」との声が高まり、ついには軍を率いて京都にのぼり直接帝に陳情しようということになった。その軍の中心となったのは、古武士の風格たっぷりの長州藩士・来島又兵衛(きじままたべえ)である。

このとき晋ちゃんは藩の政務役という重職についていた。暴発を止めよとの藩主の命を受け、来島又兵衛の説得に向かったが、「ワシらの義挙を止めに来たか腰抜けめ!」と来島になじられた晋ちゃんはカッとなって、「何! そねなこと言うならワシが先に京に行っちゃるっ!」と言い捨て、なんとそのまま脱藩して京都に向かってしまったのだ。

晋ちゃんとしては別に罪の意識もなく、藩のために京都の情勢をさぐりに行くつもりだったのだ。が、当時の常識からすれば藩主の使いの途中で脱藩するなど問題外の外で、江戸初期に家康やら家光やらが苦労して作った徳川政権の封建的規律も何もあったもんじゃない。当然、その後藩からはきついお咎めがあり、帰国した晋ちゃんは萩の牢屋に入れられたのであった(本来なら死罪になっても文句はいえない)。

長州藩が京都に攻め入る!

一方、来島翁は過激な上洛軍を訓練しながら機をうかがっていたが、元治元年(1864年)6月5日に「池田屋事件」が起き、多数の同志が殺されたことを知ると、来島翁も兵たちも血管がぶち切れそうになり、ついに京都に向けて進発した。そして長州の復権を求めた嘆願が聞き入れないと見ると、「君側の奸」である薩摩、会津らの藩兵を除くために実力行使に出たのだった(7月19日 禁門の変)。 が、結果は散々に打ち負かされ、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害して果てた。このとき晋ちゃんは故郷の獄中で完全OFFの生活を送っていたのだった。

長州の災難はそれだけにとどまらない。翌8月には、英仏蘭米の四カ国艦隊が攘夷を続ける長州藩を痛めつけるべく下関海峡に大挙来襲して沿岸砲台がぼろぼろに打ち砕かれた。さらに禁門の変で御所に発砲したことで長州は「朝敵」とされ、その懲罰のため幕府が長州征討を行うことになったのである。

長州藩は、薩摩・会津との戦いに敗れ、外国にもたたきのめされ、朝廷からも賊徒の烙印を押され、幕府からも攻撃目標にされるという、まさに四面楚歌、崩壊寸前の大ピンチにおちいったのである。 こうなっては、晋ちゃんは牢屋の中でのんびりしているわけにはいかない。藩はすぐに晋ちゃんを牢から出し、まずは外国との戦後交渉に当たらせることにした。

(禁門の変の舞台−蛤御門(京都市))

晋ちゃん、外国をあしらう!

切腹にも値する「重罪人」として牢に入れられていた晋ちゃんは一転、長州藩の最高責任者に早変わりし、藩家老たちを引き連れて四カ国艦隊列強との講和の席にのぞんだ。烏帽子に直垂姿という公家スタイルに身を包んだ晋ちゃんの様子が「魔王」のようであったと、のちに四カ国側の通訳アーネスト・サトウは語っている。おそらく晋ちゃんは2年前に上海で見た光景が頭に浮かんだのだろう。戦争に負けたとはいえ西洋諸国に対して絶対に弱腰になってはいかんという気迫のパフォーマンスだった。

長州藩正使の晋ちゃんは、関門海峡の通行の自由や困った外国船の便宜を図るなどの条項を飲み、巨額の賠償金要求も受け入れた。ただし攘夷は「幕府の命」によって行ったのであるから、「カネは幕府からもらってくれたまえ」で片付けてしまった。

幕府にしてみれば、その気もないのに攘夷実行を約束させられたあげく、無謀な行為を実行に移した藩の尻ぬぐいをさせられるなど不条理の限りだが、対外的には日本国の主権者として条約も結んでいるため、外国から賠償金を求められれば無視することはできない。(のち賠償金300万ドルは幕府と明治新政府が分割で支払っている)

またこのとき、英国から彦島租借を要求されたが、晋ちゃんは断固としてこれを拒否したという。もしこの要求を飲んでいたら下関は、香港のように植民地同様になり、その後の日本の歴史は大きく変わっていた可能性が強い。

(租借を要求されたという件は正式な記録が残っていないが、当時の対アジア政策をみれば、英国が租借の意図を持っていたことは明らかである。また租借の話を持ち出されたとき、高杉がこれをはぐらかすため、通訳も困難な古事記、日本書紀を一方的に朗じ続けたという真偽不明の伝説もある。相手四カ国同士の利害もそれぞれに異なるので、機を読む天才・高杉がそのあたりを巧みについて、講和席上の空気を変えていったことは十分に考えられる)

対外交渉で活躍した晋ちゃんだったが、その翌月に晋ちゃんはまた脱藩してしまった。長州藩にクーデターが起こり、昨日まで火の出るような尊皇攘夷藩だったのが、急に幕府に従順な藩に変身してしまったのだ。「これ以上、尊皇攘夷派に好き勝手を許しておけば藩は滅亡する」と危機感をいだいた藩内の佐幕派がクーデターを起こして政権をにぎり、尊攘派の主だった者たちを次々に投獄しては処刑しはじめたのである。

当然晋ちゃんも命を狙われる身となった。晋ちゃんは親幕府となりはてた長州藩を抜け出し、福岡、熊本などの諸藩との勤王連合を模索した。しかし、これらの藩もまた長州が佐幕化したことに追随して、みな幕府にすり寄るような態度になってしまっているのだった。

ついに幕府が攻めてくる!

そんな中、いよいよ幕軍が長州へ攻め込む姿勢を見せると、萩の俗論党政府(尊皇派は佐幕派政権をこう呼んだ)は、すぐに「ゴメンナサイ」と幕府に平謝りし、京都侵攻(禁門の変)の責任者として3人の家老(福原越後、益田右衛門介、国司信濃)を切腹させて首を幕府に差し出した。さらに藩主父子を萩で謹慎とさせることでなんとか幕府の許しを得たのだった。

日本一の尊皇攘夷藩だった長州がこんな有り様だから他藩においては言わずもがなで、いまや日本国中が佐幕一色に染まり、人々は「やっぱりなんだかんだ言っても幕府の力は巨大なのだ」と再認識し、かつて燃えさかった尊皇攘夷の炎は風前の灯火になっていた。が、ここから世に迎合するということを一切知らない晋ちゃんの真骨頂が発揮されるのである。

まずは萩の俗論党政府をやっつけなければならない。そのためには当然兵力が必要で、晋ちゃんは最後の望みを奇兵隊にかけていた。だが晋ちゃんはすでに奇兵隊の司令官ではない。晋ちゃん自身は奇兵隊の創設者で、初代の総督だったが、奇兵隊士と藩の正規部隊との間で起こったイザコザ(教法寺事件)の責任を負って創設わずか3カ月で総督をやめ、今は軍監の山縣狂介(有朋)が実権を握っていたのだ。 晋ちゃんはひそかに長州に帰ると、山縣ら奇兵隊やその姉妹部隊である諸隊の隊長を口説いた。が、皆「こんな状況では、とても勝ち目はありませんよ」と尻込みして動こうとしない。

晋ちゃん、功山寺で決起する!

最後に晋ちゃんの味方になったのは、昔からの子分の伊藤俊輔(博文)だけだった。「どうせ人間いつか死ぬんだ、俊輔。最後にひとあばれしようぜ」「わかりました、高杉さんについていきましょう!」。こうして伊藤の率いる「力士隊」らわずか80人が晋ちゃんのクーデター部隊となった。たった80人で藩をひっくり返せるか、いや長州藩だけでなく、ほとんどすべての藩が幕府になびいている中、日本全体を敵に回すことと同じで、だれもがあまりに無謀な決起だと考えた。晋ちゃん自身完全に死を覚悟していただろう。しかしもう後がないという状況の中、集中力が高まったときの晋ちゃんのパワーはすさまじい。まるで桶狭間に向かう信長のような鬼神と化していたのだった。

晋ちゃんは決起部隊とともに師走の雪におおわれた長府の功山寺に騎馬で乗り付け、滞在していた五卿(都落ちした三条実美ら攘夷派の公家)に、「これより長州男児の腕前をお目に掛け申す!」と、カッコイイ台詞を吐くと、嵐のように下関に進撃し、奉行所を抑え、あっという間に下関を占拠してしまった。さらに三田尻(現・防府市)で謹慎中だった藩海軍(軍艦3隻)を奪い取るという奇跡をなしとげ、反乱軍の勢力を急拡大させていった。するとようやく奇兵隊の山縣らも腹をくくって「こうなったらもう高杉さんの決起に加わるしか仕方ないじゃろう」と立ち上がり、萩へ向けて進軍し、晋ちゃんとともに大田・絵堂の戦いで藩正規軍の武士たちを撃破し、ついに萩の俗論党政権を打ち倒したのだった。

(功山寺にある高杉晋作決起の像(下関市))

こうして晋ちゃんは革命を成功させ、長州藩をふたたび尊皇攘夷の藩とした。ところがこの革命の主導者として藩のトップになるべき晋ちゃんは、「人間は艱難は共にできるが、富貴は共にできない」などとまたカッコイイことを言い放ち、革命の後始末もせずに、改革派同志の井上聞多(馨)をかきくどき、藩から3千両を出させ、意気揚々としてヨーロッパを目指したのだった。

ところが、藩内革命を果たした晋ちゃんの勢いはOFFとなってしまう。大金を手にしてすっかり気がゆるんだのか、同行の伊藤俊輔とどんちゃん騒ぎをしながら長崎に到着すると、こんどは長崎で会った英国人グラバーに「幕府がまたいつ攻めてくるかわからないときに、洋行などしている場合ではアリマセン」などと諭されて、外遊計画を中止し、藩の経済力をつけるため下関開港を画策していると、今度は「攘夷の高杉が変節したか、開港とは許せん!」と、狂信的な攘夷派連中に命を狙われ、また長州を脱出して、四国琴平の勤王の博徒・日柳燕石(くさなぎえんせき)のもとに身を寄せたのだった。

(高杉晋作が刺客から身を隠した「ひょうたん井戸」(下関市))

そうこうしているうちに、幕府のほうでは「また長州めが手向かって来やがった」と憤り、再度の長州征討が現実味を帯びてきた。すると、長州藩内は幕府との戦争という大問題に向かって緊張し始め、下関開港の件で晋ちゃんを狙うことなどどうでもよくなってきた。そんな雰囲気のなかで、また長州へ戻ってきた晋ちゃんは、対幕戦の準備のために下関駐在を命じられた。また水面下では「薩長同盟」の模索も始まっていた。

薩摩藩ももはや長州征伐にこだわる幕府を見切り、倒幕に向かうため長州と軍事的に結びつくことに腹を決めたのである。長州人の中には京都の政変以来、薩摩を憎む者が数多くいたが、藩存亡の危機にあっては薩摩と手を握ることもやむを得ないという空気が強まっていた。

晋ちゃんも年来、薩摩のことが嫌いだったから、表だった交渉事は桂小五郎が中心になって進められていた。坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれたのは慶応2年(1866年)1月である。ちなみにこのころ、晋ちゃんは龍馬に上海で買ったピストルを贈っている。

晋ちゃん、幕府軍を打ち破る!

そして慶応2年(1866年)6月、ついに幕府軍が攻め寄せてきた。前回(第一次長州征伐)は戦争が始まる前に、俗論党政府が幕府に謝ったため、実際の戦闘は起こらなかったが、今回はついに長州藩対徳川幕府の戦争が現実のものとなったのである。徳川による太平の世が始まって以来(初期に豊臣家が滅ぼされた大坂の陣などがあったが)、初めて公儀徳川家に対して外様大名一藩が公然と刃向かったのだ。

長州藩の軍事司令官は、晋ちゃんと大村益次郎が担当した。幕府軍は、芸州口、石州口、大島口、小倉口、の4方面から攻め入ってきた。当初、長州側は兵力の分散を避けるために、大島口の周防大島は見捨てる方針だったが、いざ幕府海軍による大島占領の報が入ってくると、晋ちゃんはいても立ってもいられず、たった1隻の小さな軍艦で出動し、夜襲をかけてこれを迎えうったのだ。海上で夜間攻撃するなどまったく常識外れな戦法で、まさか敵襲を受けるとは思いも寄らなかった幕府海軍は、闇のなかで敵の戦力を過大評価し、大あわてで藩領から去っていった。

ちなみにこの軍艦「オテントサマ丸(丙寅丸)」は以前、晋ちゃんが長崎に出かけたとき、グラバーに「土産に船をひとつ包んでくれ」というような軽いノリで、藩に無断で9万両の蒸気船を購入し、そのまま長州に乗って帰ったという所以のしろものである。まるでカステラか何かのように軍艦を買ってきた晋ちゃんに藩はカンカンになったが、晋ちゃんは革命の大功労者でもあることから、しぶしぶ購入を認めることになったのだった。その船で幕府海軍を駆逐したのだから、晋ちゃんの先見の明は、普通の人間には計り知れないものがある。

この「第二次長州征伐」は、最初から幕府側に勢いはなかった。第一次のときは薩摩藩の西郷隆盛が幕軍の参謀となって働いたりしたが、その薩摩は幕府に見切りをつけ、すでに薩長同盟を結んでいたため、征長軍には参加していなかった。さらに従軍を命じられた諸藩も、なかばいやいやながら出陣していたため、藩の興亡を背負って必死に戦う長州の諸隊には士気の点で遠くおよばず、ちょっと攻められるとすぐに退却したりした。幕府側の諸藩には命を賭けてまで戦う理由がないのだから当然ともいえる。また長州藩は攘夷戦争以来戦闘経験も豊富で最新の武器を揃えていたのに対し、幕軍側は日頃訓練もしていない形ばかりの武士が、先祖伝来の旧式の武具を引っ張り出して戦場に向かっていたりで、純粋な戦闘能力の点でもまったく劣っていた。

晋ちゃんは最後に、関門海峡を渡って北九州に展開する幕府軍に波状攻撃をかけ、本拠地・小倉城にせまった。このとき近くを通りかかった坂本龍馬をつかまえ(「こないだピストルやったじゃろうが」とは言わなかっただろうが)、龍馬のユニオン号を長州軍に参加させている。

幕府側は老中・小笠原長行(おがさわらながみち)がこの方面の指揮をとっていたが、最初から腰が引けていたため、動員された九州の諸藩もだんだんやる気がなくなり、ますます戦況は厳しくなり、ついに小笠原総督は小倉城から逃げ出してしまった。小倉藩兵はもはや城を自ら焼き払って逃れるしかなかった。

この小倉城陥落で戦争の帰趨が決し、幕府側は将軍家茂が亡くなったことを言い訳にして休戦を申し出た。幕府の実質的敗北である。

晋ちゃんは対幕戦での疲労がこたえたのだろう、その後持病の肺結核を悪化させ、下関郊外で療養生活に入った。しかしもう幕府は長州征討の失敗によって、その滅亡は時間の問題となっていた。

こうして幕府を倒すための晋ちゃんの役目は終わり、面白くもないこの世を永遠に脱藩して、新しい世界でゆっくりとOFFを楽しむことに決めたのである。

慶応3年(1867年)4月14日、高杉晋作、下関の林算九郎宅の離れにて死去。享年29。遺骸は下関市郊外の吉田の地に葬られた(現在の東行庵)。

(高杉晋作終焉の地(下関市))



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