気まぐれ人物伝
おきたそうじ 天保13年(1842年)? 〜 慶応4年(1868年)

略歴

白河藩士の子として、江戸に生まれる。

江戸の剣術道場・試衛館に預けられ、天才的な剣術使いとして、天然理心流塾頭をつとめる。

将軍・家茂の上洛にさいし、近藤、土方らとともに警護を担当する「浪士組」に参加し、京都へ。

京都で浪士組をもとにした「新選組」が結成されると、沖田は一番隊隊長となる。沖田は新選組の武力の象徴であり、もっとも多くの人間を斬った隊士ともいわれる。新選組初代局長の芹沢鴨の暗殺にも加わった。

新選組が尊攘派浪士を襲撃した「池田屋事件」では、近藤勇、永倉新八、藤堂平助とともに、 4名で屋内に斬り込む。奮闘し浪士多数を殺傷するも、戦闘の最中に喀血(肺結核といわれる)して戦線離脱。

総長・山南敬助が新選組を脱走したさいには、沖田が追っ手として差し向けられた。沖田は山南 を連れ戻し、切腹を命じられた山南の介錯をつとめる。

病気のため、沖田は鳥羽伏見の戦いには参戦できず、大阪に滞在。さらに江戸に帰り、甲陽鎮撫隊に 参加したが、途中で離脱。

師・近藤勇が板橋で斬首になったことも知らぬまま、千駄ヶ谷で病死。享年は25(推定)。

生涯

沖田総司は美少年の天才剣士?

沖田総司は、小説や漫画などではほぼ100パーセント、容姿端麗な美剣士として登場する。写真が残っていないし、一度そのようなイメージが世間に定着してしまったら、もう取り返しがつかない。のっぺりとした緊張感の薄いヒラメのような顔であっては断じてならないのである。 短い青春の日々を一瞬の剣技のようにするどく生き抜き、町の子供たちに好かれ、可憐な京娘との悲恋物語の主人公でもあった、そんな沖田の生き様が後世にあたえるイメージは、まちがいなく「二枚目の天才剣士」であろう。

新選組のなかで誰よりも多く人を斬ったという沖田。御陵衛士(ごりょうえじ)の阿部十郎(あべじゅうろう)が評すように、非情な一面があったことも事実だろう。しかし、彼の本分は尊敬する師・近藤勇のために働くことであった。与えられた職務を忠実にこなし、汚れ役を率先して引き受けるひたむきさが、この孤独な天才の存在の正当性を支えていた、といえるのかもしれない。

人生の師・近藤勇との出会い

(東京・新宿区の試衛館跡)

沖田総司は、天保13年(1842年)の夏に江戸で生まれた(天保15年の説もある)。もとの名は沖田宗次郎。寛政の改革を行った松平定信(まつだいらさだのぶ)で有名な白河藩の足軽頭・沖田勝次郎の長男である。したがって本来なら総司が沖田家の家督をついで、一家のあるじとなるはずだった。ところが総司の幼少のころ、父母ともに他界してしまったため、総司のいちばん上の姉・ミツが婿養子をとって沖田家をつぐことになったのだ。

嫡子でなくなった総司は、9歳のころに天然理心流の道場である試衛館(しえいかん)に内弟子としてあずけられた。

家を継ぐこともできず、幼くして家族とも離ればなれになった沖田総司にとって、唯一のなぐさめは剣の修行にはげむことだったのではないか。もともと沖田は剣術においては天才的な能力を発揮していた。12歳のときに白河藩の剣術指南役に打ち勝ったという話も残っているほどだ。そんな才能をのちに試衛館の主となる近藤勇がきびしい稽古できたえあげ、沖田の腕はますますみがかれていった。そして20歳のときに晴れて試衛館の塾頭となる。

沖田の剣の腕はだれもが認めるところだった。有名な「三段突き」は、剣を三度繰り出す動作があまりにも素早いため、一度しか突いていないように見えたという。「竹刀をとれば、土方(ひじかた)も藤堂(とうどう)も子供扱いされた。本気で立ち会えば師の近藤もかなうまい」などと永倉新八遺談は残している。

むろん、沖田にとって近藤は特別な存在である。家族愛にめぐまれなかった沖田の親代わりとして近藤は沖田の面倒をよく見てかわいがった。試衛館は道場というより沖田の家そのものだったろう。

新選組一番隊隊長・沖田総司

幕府が募集した浪士組(ろうしぐみ)の一行に近藤が参加することを決めると、沖田も近藤について京へのぼった。そして分裂した浪士組から新選組が生まれると、沖田は一番隊の隊長として実行部隊の中心的な役割をになうこととなった。

新選組のダンダラ羽織の山形模様は、「斬る」という行為を連想させる。そのイメージを具現化するかのように、沖田の剣はその後、攘夷派の志士や不逞浪士など、都にのさばる「悪しき輩」の血を求めて、京や伏見の町辻をいそがしく行きかうことになるのだ。

新選組と言えば、身内の粛正でも有名だ。沖田の剣は、仲間の命をあの世に送るという非情な役目の行使にもたびたび使われた。

壬生浪士組時代に、筆頭局長でありながら不品行、放蕩無頼によってグループの品性を貶(おとし)めた芹沢鴨(せりざわかも)の暗殺に加わり、またのちには、隊のなかでも重要なポストにつき沖田とも親しかった山南敬助が逃亡したときに、連れ戻して切腹の介錯を行うというつらい仕事も遂行した。新選組は隊の秩序をまもるために鉄の掟をかかげており、逃亡は許されない大罪だったのだ。

「京都の恋」

職務遂行のためには、私情の介入は禁物。そうした近藤や土方らの厳しい哲学に加え、剣ひとすじに生きてきた天才・沖田総司は人生そのものもつねに剣の道のように厳しく見つめようとしていた。いっぽう、ふだん剣を手にしていないときの沖田は、とかく仲間に冗談をとばすのが好きで、屯所の近くで子供たちと無邪気にたわむれる姿もよく見かけられたという。

そして沖田の恋。新選組の隊士の多くは女遊びが大好きだったが、沖田は恋愛においても純で一途なところがあったらしい。沖田は時にふれ、医者の娘だったという京都の恋人のことを思い出しては涙していたという話が伝わっており、沖田に相思相愛の恋人がいたことは確かである。しかしそのふたりの関係は、ほかならぬ近藤勇の苦渋の判断によって終わりをつげたのだった。

その恋人が実際だれだったのか、そしてなぜ近藤はふたりの仲を裂いたのか。一説によれば、相手の女性は近藤の養女であり、おなじく近藤が養子にしていた谷周平(新選組隊士)と娶(めあわ)せるつもりだったからともいわれている。また、医者である女性の父親が、労咳(結核)もちの沖田との結婚に反対していたからという話もある。

とにかく、沖田は師である近藤の説得により恋の成就を断念せざるをえなかった。事情はさまざまにとりざたされているが、そうしたなぞめいた悲恋物語も、また沖田の一途な生き様に魅力を加えているのだろう。

(「沖田氏縁者」と掘られた墓石。沖田の思いびとの墓ではないかと言われている(京都・光縁寺))

池田屋では獅子奮迅するも喀血で離脱

世に名高い池田屋事件では、攘夷派の浪士たちがひそむ三条の旅籠・池田屋に、局長の近藤勇以下、藤堂平助(とうどうへいすけ)、永倉新八(ながくらしんぱち)とともに、わずか4名で斬り込んだ。沖田はその剣豪ぶりを遺憾なく発揮し、浪士たちをつぎつぎと斬り捨てていったが、戦闘途中で咳き込み、喀血してたおれこんだ。

さすがの沖田も、多人数を相手にした長時間の戦闘で体力を相当消耗したのだろう。このときの病状は結核によるものとみられているが、確かなことはわからない。とにかく沖田は無念にも新選組がもっともその名をあげた池田屋の戦いから途中退出しなければならなかったのである。

沖田は最後まで戦えなかったが、幸いなことに虚をつかれて負傷することもなく、その後土方隊などの支援も受けた新選組は大勝利をおさめた。 池田屋での功績があったからこそ、新選組は今日までその存在がながく語りつがれているといってもいい。(とくに最近の歴史家、小説家の影響が大きいが)

(京都・池田屋跡)

池田屋の見取り図

短き青春の最期

池田屋事件後も沖田は新選組のために力を発揮し続けた。しかし明治を目前にした慶応3年(1867年)ころになると、病があつくなり、鳥羽伏見の戦いでは、ほとんど戦わずして大坂に送られ、やがて戦いに敗れた幕軍とともに海路で江戸に帰った。

近藤は「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と名をかえた新選組を率いて甲府へ向かい、沖田もこれに従おうとしたが、もはや身体は戦いに耐えるような状態ではなく、従軍を断念せざるをえなかった。

その後、幕臣の松本良順(まつもとりょうじゅん)のはからいで、千駄ヶ谷の植木屋でひっそりと療養していたが、いよいよ病状は悪化し、慶応4年(1868年)5月30日にその短い一生を終えたのだった。

それより前、師の近藤勇は下総・流山で捕縛され、斬首されていたが(同年4月25日)、沖田はそのことを知らず、「先生はどうされたんでしょうね。おたよりは来ませんか?」と、すでにこの世にいない師のことを案じながら最期の日々を送っていたという。