気まぐれ人物伝
ながくらしんぱち 天保10年(1839年)〜大正4年(1915年)

略歴

松前藩士の次男として、江戸に生まれる。

脱藩して剣術の修行を重ねるうち、近藤勇の試衛館に行き着き、食客となる。

試衛館の同朋とともに「浪士組」に参加し、京へのぼる。新選組が結成されると、二番隊組長に任命され、 新選組の幹部として活躍。池田屋事件では4名の突入メンバーとして、近藤とともに最後まで尊攘派浪士と戦う。

局長・近藤の傲慢な態度が目立つようになったため、反発し近藤一派と対立。原田左之助らとともに、近藤の「非行」を会津藩主・松平容保へ訴える。容保の仲裁を得たため、永倉は隊の脱退などには至らなかった。のちには、御陵衛士の粛清にも参加する。

鳥羽伏見の戦いで敗れたあと、新選組から名を改めた甲陽鎮撫隊に加わり、新政府軍と戦ったが敗れる。近藤らと 決別し、靖兵隊を結成して会津藩のために戦うが、会津藩降伏により江戸に帰る。

松前藩への帰参が許され、藩医である杉村介庵の婿養子となり、北海道松前町に住む。のち杉村義衛と名乗り、小樽へ。 大正4年、享年77で病没。

生涯

ヤクザを一喝した老人

白いあごひげを胸元にたらした杉村義衛(すぎむらよしえ)は、満足そうな表情をうかべて孫の手をひき、活動写真(映画)館から出るところだった。

「仲間たちはみな若くして死んでしまったが、わしは長生きしたおかげでこんな面白いものを見ることができる。文明というのはたいしたものじゃ」

下足箱の前で靴をはこうとしたそのとき、やくざ者とおぼしき数人の男たちがどやどやと肩をいからせて入りこみ、すれちがいざまに杉村老人と孫を突き飛ばした。

「おい、気をつけろ。じいさん!」

すぐさま立ち上がった老人が「待て!」と言うと、男たちは『なんだと…』という脅し眼で振り返った。

つぎの瞬間、老人の顔つきが一変した。持っていた杖を片手で中段にかまえると、全身からすさまじい気を放射していた。杉村老人は、かつての新選組二番隊隊長・撃剣師範の永倉新八(ながくらしんぱち)に戻ったのである。

虚勢を頼りに生きている半端者が、壮絶な幕末の修羅場を幾度もくぐり抜けてきた歴戦の剣士とわたりあえるはずもない。 もしその場が昔日の池田屋であったなら…。彼らは為すところもなく名刀氏繁の一閃であの世に送られていたことだろう。

老いてなお衰えぬものすごい気迫に圧されたやくざ者たちは、唖然としてその場から逃げ去ったという。

新選組へ入隊

永倉新八は、松前藩江戸定府取次役だった長倉勘次の二男に生まれた(生まれ年は長州の高杉晋作と同じ)。150石取りというからそれなりの家格である。そんな永倉は長ずるにしたがって剣術に熱中し、15歳のときに神道無念流岡田道場に入門し、18歳で免許皆伝を得た。

その後脱藩して、姓も長倉から永倉へと変えて各地の道場をわたりあるいた。そして行き着いたのが近藤勇(こんどういさみ)の試衛館(しえいかん)である。永倉は自分の居場所を見つけた思いだったのだろう。さっそくにも試衛館の食客となって、近藤、土方(ひじかた)、沖田ら名だたる剣の使い手たちと切磋琢磨する日々をここですごした。

(東京・新宿区の試衛館跡)

そんなある日、道場主の近藤が、上京する将軍の警護のために幕府が募っていた浪士組に加わるというので、他の試衛館メンバーともども、永倉も同行することにした。

そして、京都で浪士組が分裂し、試衛館グループを中心とした新選組が誕生すると、永倉は副長助勤(副長・土方につぐナンバー3)・二番隊隊長の役目を負い、新選組の中核メンバーとして活躍することになる。

池田屋での活躍

尊攘派の過激浪士たちが陰謀をくわだてているという情報をつかんだ新選組は、探索のすえ、三条の旅籠・池田屋の二階奥座敷に集結していた浪士たちを急襲。このとき、斬り込み部隊となったのが、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助(とうどうへいすけ)の4名だった。このとき永倉はおもに一階の土間あたりを拠点とし、二階から逃げ降りてくる浪士たちを次々に斬り捨てていった。

やがて同じ一階で戦っていた藤堂が敵の攻撃で額を割られると、永倉はその敵を斬って捨てた。藤堂の負傷につづき、二階を担当していた沖田が喀血のため昏倒。ふたりが離脱したため、前線部隊は近藤と永倉の2名となり、さすがに試衛館の手練(てだれ)も苦境に立たされた。永倉はすでに左手に傷を負っていた。

戦況がいよいよ危うくなったときに、土方隊が到着し、新手(あらて)の援軍を得て、新選組は一気に攻勢に出た。浪士たちは吉田稔麿(よしだとしまろ)・宮部鼎蔵(みやべていぞう)・北添佶摩(きたぞえきつま)ら9名が死亡、夜半には戦闘が終了した。

(京都・池田屋跡)

池田屋の見取り図

近藤勇との確執

池田屋事件での活躍や禁門の変での出動を評価され、新選組の地位と名声は急速に高まった。が、新選組がより大きな存在になるにつれ、永倉と近藤との関係はぎくしゃくしてきた。近藤は軍事組織としての新選組をより強固なものとするため、自分と隊員たちとの関係を、大名と家臣のようにしようと目論んでいたのだ。

永倉にとって、近藤はあくまで剣の道でむすばれた同志であって主君などでは決してない。近藤の増長した態度にがまんができなくなった永倉は、思いを同じくする斉藤一(さいとうはじめ)、原田左之助(はらださのすけ)、尾関雅次郎(おぜきまさじろう)、島田魁(しまだかい)、葛山武八郎(かづらやまたけはちろう)とともに、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)へ「非行五ヶ条」として訴え出た。

このときは、松平容保の仲裁で両者は和解し、近藤の側に立っていた土方歳三も新選組の内部分裂をおそれて、造反した永倉らを穏便な処分ですませた(葛山武八郎のみは切腹)。この後、永倉も近藤も新選組のなかで互いの役割にそって活動をつづけたが、見えない溝が埋まることはなかった。

鳥羽伏見では決死隊をひきいる

鳥羽伏見の戦いがはじまると、新選組を含む旧幕軍は伏見奉行所に集結。これに対する薩摩軍は御香宮(ごこうのみや)神社に布陣した。薩摩軍の砲弾がふりそそぐなか、永倉新八は「決死隊」と称し、島田魁らとともに薩摩の本陣へ向けて斬り込み、勇猛でなる薩摩隼人をも驚かせる場面もあった。しかしこうした奮闘もむなしく、薩摩軍の圧倒的な火力におされ、新選組は多数の死傷者を出して撤退。大将であるはずの将軍徳川慶喜がひそかに大坂を脱出すると、家臣や兵卒も先をあらそって後を追い、永倉らも大坂から軍艦「順動丸(じゅんどうまる)」で江戸に帰還した。

(永倉新八率いる決死隊が斬り込んだ御香宮神社(京都市伏見区))

徳川慶喜は、江戸で謹慎し新政府軍に対して恭順の意を示していたが、新政府側はあくまで江戸で最終決戦をおこなうべく、東海道、東山道(中山道)、北陸道の3つのルートに分かれて進軍を継続。これに対し新選組は、東山道軍を甲府で迎えうつために、「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として出陣した。永倉新八もこの鎮撫隊に参加している。

一説によれば、慶喜から幕府の全権を与えられていた勝海舟が、新選組を江戸から遠ざけるために甲府出陣命令を出させたという。 勝は江戸の町を守るため、東征軍(新政府軍)が到来しても不戦を決意していたが、それをいさぎよしとしない(新選組をふくむ)旧幕臣たちの勢力が、暴発するおそれがあったからだ。

北海道で余生をおくる

甲府に向けて進発した甲陽鎮撫隊(新選組)だったが、進路の途中の故郷・日野で地元民の歓待を受けたりして日を過ごしている間に、東征軍側に甲府城を先に取られてしまい、圧倒的に不利な状況で交戦にいたる。結果、兵器・兵数の差も著しく劣っていた鎮撫隊は惨敗。各員散り散りになって江戸に逃げ帰った。

甲州での敗戦で、近藤の統率力も凋落し、結局永倉新八と原田左之助は近藤・土方らと袂を分かつ。永倉は新たに旧幕臣らと「靖共隊(靖兵隊(せいへいたい))」を組織して、会津戦争へと向かった。しかしやがてその会津も新政府軍の攻撃に耐えきれずに降伏。永倉はもはやこれ以上の抵抗をあきらめ、すでに新政府軍によって制圧された江戸に戻った。

ほどなく永倉は松前藩士に復帰することがゆるされ、北海道の松前にわたった。明治6年には、養子先の家督を相続して、杉村治備(はるのぶ?)と名を改めた(さらにのちには義衛(よしえ))。樺戸(かばと)監獄(現・樺戸郡月形町)で剣術指南役をつとめたり、一時は東京で剣術道場を開いたりしたが、明治32年に小樽に移住。大正4年(1915年)1月に病を得て死去した。

晩年は孫をつれて映画見物をたのしむなど、悠々自適な日々をすごしたという。