気まぐれ人物伝
こんどういさみ 天保5年(1834)〜慶応4年(1868)

略歴

多摩(現・東京都調布市)の農民・宮川家の三男として誕生。

剣術道場・試衛館に入門。創設者の養子となり、天然理心流を継ぐ。

将軍・家茂の警護を行う「浪士組」に参加し、京へのぼる。

京都の治安維持部隊として会津藩配下となり「新選組」の名を拝命。近藤は新選組局長となる。

三条の旅籠「池田屋」で、尊皇攘夷派浪士を襲撃。多数を殺傷、逮捕する。

新選組から離脱した伊東甲子太郎、藤堂平助らを斬殺。

身内の粛正に追われているうちに、鳥羽伏見の戦いが勃発。近藤は関東に戻り、甲州勝沼で新政府軍に敗れる。

下総国流山で、新政府軍に包囲され出頭。板橋刑場で斬首される。享年35。

生涯

農家の三男坊だった近藤

今回は、新選組の局長だった近藤勇(こんどういさみ)を取り上げよう。

近藤勇は、天保5年10月9日(1834年11月9日)、武蔵国多摩地方(現在:東京都調布市)の農家の三男として生まれた。もともとの名は「宮川勝五郎」。同姓同名の方がいたら申し訳ないが、あまり強そうなイメージではない。

16歳のとき、江戸に道場をもつ天然理心流の「試衛館(しえいかん) 」に入門したところ、道場主の近藤周助(こんどう しゅうすけ)に、たいへん気に入られた。「勝五郎よ、おぬしなかなかやるな! わしの子にならぬか!」と言われて、近藤家の養子になり、やがて近藤勇という、いかにも幕末の志士を斬りまくりそうな勇ましい名を名乗るようになったのだ。

(東京・新宿区の試衛館跡)

そして28歳で、天然理心流宗家を継ぎ、近藤は、(現在の新宿区市谷柳町あたりにあったといわれる)試衛館のあるじとなった。剣術の腕前もさることながら、おおらかで包容力があり人格的な魅力もあったのだろう、各地から名うての剣豪がぞくぞく集まってきて、将来の新選組の「温床」が市谷柳町にできあがったのであった。

ここに集まったのは、土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)、山南敬助(やまなみけいすけ)、井上源三郎(いのうえげんざぶろう)らの門人、そのほか、永倉新八(ながくらしんぱち)、原田左之助(はらださのすけ)、藤堂平助(とうどうへいすけ)、斎藤一(さいとうはじめ)らも、食客として滞在していた。

食客(しょっかく)というのは、一種の居候である。ただ飯を食ってごろごろしているのも居候だが、道場の食客というのは、ヤクザの親分のところへわらじを脱いだ渡世人が、喧嘩の加勢をしたりして一宿一飯の義理を果たしたように、何かしらの働きでもって宿主に報いていた(弟子たちに稽古をつける、道場破りの対応をする、薪割りをする等)。

折しも、江戸の上空では風雲乱世の黒い雲がその厚みをましつつあった。この黒い雲こそ、まさしくペリーが率いてきた黒船(の煙突)からモクモクとはき出されたものである。

それまで、日本国の万民が不動の山のごとくにあがめていた幕府という巨城が、たった4隻の外国船のおどしによって、その屋台骨がぐらぐらと揺れはじめたのだ。

もちろん、常々オランダ経由で海外情報を入手していた幕府は、4隻の軍艦の背後にある巨大なアメリカ(西洋列強)の国力というものを、ある程度つかんでいたのであるが、外国事情の片鱗すら知らない(知らされてこなかった)一般人は、朝廷も大名も武士も浪人も町人も農民も、外国の侵略に対する恐怖や幕府の対応への不満ばかりがつのり、「攘夷」の嵐が日に日に強まっていたのである。

浪士組に参加し京都へ

そんななか近藤は、14代将軍・徳川家茂が上洛するため、幕府が警護要員として浪人者を 集めているという話を耳にする。聞けば、武士であった者でなくとも、志さえあれば身分にこだわらないという。「これはまたとない好機だ!」と近藤は考えた。

「おれは武士にあこがれて剣術を学んできたんだ」

近藤はとにかく武士になりたかったのである。 天領で育った近藤にとって、主君は将軍であり、幕府である。 いまこそ、サムライの心をもって幕府への忠誠を誓い、鍛えてきたその腕を存分に試すときではないか。

将軍上洛にあわせて組織された「浪士組」。もともとは庄内藩出身の清河八郎(きよかわはちろう) の アイデアだった。清河は筋金入りの尊皇攘夷論者であり、卓越した頭脳と行動力をもった志士だった。 清河は幕府にこうもちかけた。

「江戸でゴロゴロしている尊皇攘夷をかたる浪人どもを集めて警備の仕事を与え、まとめて京都に送っちゃいましょう。そうすれば江戸もさっぱりするし、危なっかしい連中はひとつところにまとめておいたほうが好都合です。攘夷のために働けるんならやつらは喜んではせ参じることでしょう。すべてワタシ清河におまかせくださいませ」

清河は人を殺めたかどで幕府に追われていた身ながら、奇想天外な手を考え出して、うまく幕府を利用し、尊攘派の浪人を集めることに成功したのである。
(実際には、このアイデアは清河と剣術同門の山岡鉄舟が相談して作り、講武所剣術教授方の松平忠敏が幕府に建白した。浪士組に入れば前科を免除するという規定も設けた。これにより清河は自分自身の罪を帳消しにしたのである)

当時の攘夷運動というのは、非常に複雑な様相をしめしている。

そもそも将軍家茂の上洛の目的は、孝明(こうめい) 天皇に攘夷を誓うことであった。が、これはまったく形式的なものであり、開国政策をすすめている幕府にとって、本気で攘夷実行などできるはずがない。攘夷を天皇に誓うというのは、幕府がめざす公武合体のため、そして攘夷攘夷で盛り上がっている世の中を鎮撫するためのパフォーマンスにすぎなかったのである。

さて、近藤勇が浪士組への参加を決めると、試衛館の門弟や食客たちが、「ワシも、ワシも!」と、みな打ち揃って上京することになった。

試衛館のメンバーには、尊皇だ攘夷だなどという理屈で動く人間はほとんどいない。ただ乱世の中、幕府の用心棒となって名をあげ出世をし、武士としての本懐をとげたいという男気がかれらを駆り立てたといっていいだろう。

浪士組が江戸を出立したのは、文久3年(1863年)2月8日。中山道を経由して同月の23日に 京都到着。一行は壬生(みぶ)村に宿をとった。

壬生浪士組そして新選組結成

ところが京都へ着くと、浪士組の首謀者・清河八郎は「浪士組の本意は(将軍の警護などではなく)、尊皇攘夷の 先陣に立つことである」と浪士組の面々に宣言。朝廷にもそのための建白書を提出した。浪士たちを京都へ連れてきたのは、攘夷の先兵たる軍隊として朝廷のお墨付きをもらうためだったのだ。

清河は、幕府に対しては口実として集めた尊攘派浪人を、本当の尊皇攘夷運動に転換させようとしたのである。

清河のこの変節(清河自身にしてみれば予定通りの行動だが)に、近藤らの試衛館グループや水戸藩浪士の芹沢鴨らは反発。浪士組を脱退し、京都守護職である会津藩に嘆願書を出し、「会津藩預かり」の部隊として認めてもらうことに成功した。そしてかれらは京都に残留して「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」となったのだった。

近藤らの壬生浪士組は、局長3名。すなわち芹沢鴨(せりざわかも)(筆頭局長)、近藤勇、新見錦(にいみにしき)である。彼らは京の町に跋扈(ばっこ)する尊攘過激派の取り締まり、治安維持にあたった。つまりテロ対策要員である。もともと民間人だったのが、「わたしらは政府(幕府)のために働きたいのです!」と無理やり志願して、公務員の自衛隊にしてもらったようなものだ。そして彼らは、長州藩を京都政局から追い出した「八月十八日の政変」(文久3年8月18日(1863年9月30日)のさいに功をあげ、その存在感を高めていく。

鉄の規律と粛正

ところが、壬生浪士組には困った問題児がひとりいた。ほかならぬ筆頭局長の芹沢鴨である。

彼は試衛館派ではなく、水戸藩の郷士の出身。頭がよく剣の腕も弁舌も達者だったことから、同志を牛耳り、壬生浪士組のリーダーとなっていたが、もともとが乱暴者で、己の欲望のためには恐喝・強盗・暴力など、悪行三昧を繰り返していたのだ。性質は「鴨」どころか「狼」だったのだ。そのため、京の町における壬生浪士の評判は非常にわるく、じっさいに「狼士」などと揶揄されてもいた。

見かねた朝廷・会津藩からも芹沢を除くよう、近藤ら試衛館派に命がくだり、土方、沖田、山南、原田らによって芹沢の暗殺が実行されたとされる。

そして八月十八日の政変を機に新選組の名も拝領し、近藤勇を局長、土方歳三を副長とし、試衛館派のメンバーを中心とした組織に生まれ変わったのである。

新選組には、長年剣術に専心し猛稽古によって鍛えあげられた練達の士がそろっていた。また近藤 ら農民出身の者も、士分にあこがれて浪士隊に集ってきたという経緯から、新選組は幕府のために 命をかけて戦うという、武士の本分を信条とするようになったのである。そのため、厳しい隊規を定め、これをやぶった者には、切腹や暗殺という容赦ない仕置きを課した。

新選組が定めた「局中法度」には、以下のような五箇条が記されている。

一、武士道に背いてはならない。
一、局を脱してはならない。
一、勝手に金策をしてはならない。
一、勝手に訴訟を取り扱ってはならない。
一、私闘を禁ずる。

以上の法度にそむいた者に対しては、切腹が申しつけられた。法度破り等で粛正された人数は、累計で41名にもおよぶという。

幕末期の当時、不忠の大罪とされた「脱藩」でさえ、それのみで死罪となる例は少なかったことを考えると、組からの脱走で即切腹というのは、きわめて重い罰といえるだろう。

ところで、「新選『組』なのに、なんで『組長』ではなく『局長』」? と疑問に思う人もいるかもしれない。「局」というのは、今でも行政組織の機関名として使われているが、当時の会津藩に同様の名称があったことから、京都で会津藩預かりとなった新選組にも踏襲されたということらしい。

池田屋事件で一躍名をあげる

元治元年(1864年)6月5日、新選組は長州藩過激派による「テロ計画」の情報を入手する。長州藩は前年の文久3年(1863年)、八月十八日の政変で京都政局から追い出されたが、その劣勢を挽回するため、京都の町に火をはなち、混乱に乗じて天皇を長州に連れ去ろうという驚天動地の陰謀が進行中だというのだ。

陰謀にかかわる密議のため、志士たちが三条小橋の旅籠・池田屋に集結していることをつかんだ近藤たちは、これを会津藩に通報。しかしなかなか藩兵が到着しなかったため、時を逸することを危惧した近藤は少人数で突入することを決意した。

このとき、池田屋の2階に集結していた浪士たちは約30名。これに対し、新選組は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名のみで斬り込んだ。

(京都・池田屋跡)

池田屋の見取り図

戦闘中、沖田(肺結核による喀血と言われるが諸説あり)と藤堂(負傷)が離脱。近藤は永倉と共に必死でしのぐうち、土方隊が応援に駆けつけ、会津藩兵も到着して池田屋周囲を固めると、浪士たちは追い詰められた。結局浪士たちは長州藩の吉田稔麿(よしだとしまろ)、熊本藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら9名が死亡、4名が捕縛された。さらに翌日20名以上が逮捕された。

この池田屋事件の功績により、新選組は幕府・朝廷から感状と褒賞金を下賜され、その武名は一躍京都の町に広まることになった。 のち新選組は、慶応3年(1867年)に晴れて幕臣に取り立てられている。

高台寺党を壊滅に追い込む

禁門の変のあと、近藤をはじめとする新選組のメンバーは、新たな隊士を募集するため、江戸に下向した。この募集によって、北辰一刀流の剣士・伊東甲子太郎(いとうかしたろう) が入隊する。

伊東は頭脳明晰・文武両道の名士であり、国学にも通じ詩歌・文芸への造詣も深かった。包容力のある人格も魅力的であり、近藤をふくめ多くの隊士たちが伊東を尊敬するようになったのである。

しかし伊東甲子太郎は、もともと水戸学を学んだ尊皇派だった。 京都の治安を守るという新選組の目的は共有できても、本来が佐幕派の近藤や土方と、天皇を 至上と考える伊東とでは、心胆相容れることはなかったのだ。

やがて伊東は、自分と志をおなじくする隊士たちを引き抜くかたちで、新選組を離脱し、孝明天皇の陵を守る御陵衛士(ごりょうえじ)という組織を結成した。御陵衛士は屯所が置かれた場所から高台寺党ともよばれる。

高台寺党には、伊東甲子太郎の実弟である鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)、藤堂平助、服部武雄、斎藤一など15名が参加した。

ほどなく、伊東甲子太郎が新選組を乗っ取るため、近藤、土方の殺害を企てているとの通報が近藤のもとに届いた。(じつは高台寺党に参加した斉藤一は、伊東を見張るためのスパイだったとの見方が有力視されている)

このため、近藤は部下に伊東の暗殺を実行させ、さらに伊東の遺骸を油小路七条に放置。遺骸を引き取りに来た藤堂平助らも暗殺者の手により斬殺された。こうして伊東甲子太郎ひきいる高台寺党は壊滅したのである。

戊辰戦争がはじまる

慶応4年(=明治元年)(1868年)、薩長軍(新政府軍=官軍)と幕府軍の戦いである「戊辰戦争」がはじまる。その緒戦である「鳥羽・伏見の戦い」が慶応4年1月3日にはじまったが、近藤勇は、その直前に御陵衛士の残党に襲われて負傷していたため、大坂で療養をしていた。

新選組は、土方歳三が150名ほどの隊士を率いて戦ったが、新政府軍の前に敗北。幕府の軍艦で江戸に帰還する。

その後、近藤は「大久保剛(おおくぼたけし)」、土方は「内藤隼人(ないとうはやと)」と名を変え、新選組も「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と称して、甲府へ進軍した。

しかし勝沼で新政府軍と交戦した鎮撫隊はたちまち敗れ、ちりぢりになって江戸へ敗走した。ここで永倉新八、原田左之助らが鎮撫隊を離反し、別行動をとることになった。

その後も近藤は、土方とともに隊を立て直そうとするが、下総国流山(ながれやま)で新政府軍に包囲された。

(新選組の流山本陣跡(千葉県流山市))

近藤勇、板橋で斬首される

近藤が流山で新政府軍に包囲されたとき、本陣には土方と他数名の隊士しかいなかった。

近藤は「もはやこれまでだ」と観念し、切腹しようとしたが、土方がそれを制し、「いや、こちらには敵意がないと主張すれば、何とか切り抜けられるかもしれない。それからまた事後のことを考えよう」と説得し、それを聞き入れて近藤は新政府軍側に出頭した。

このとき近藤は「大久保大和(おおくぼやまと)」と名乗っていた。新政府軍側はこの男が近藤勇ではないかと最初から疑っていたが、円滑に身柄を確保するため、わざと穏便に「武装解除すればそれ以上とがめ立てはせず。ただし隊長たる貴殿は、謝罪のため本営にまかりこすよう」伝えた。

(矢河原の渡し跡。近藤勇は土方らと別れ、官軍に連行されてここから江戸川を渡った(千葉県流山市))

こうして近藤は流山から越谷の本営に連行された。ところがそこには近藤の顔を知る元御陵衛士の者がいて、大久保大和が実は元新選組局長・近藤勇であることが明らかにされてしまった。

その後、薩摩藩と土佐藩とで近藤の処置をどのようにするか意見が分かれたが、「坂本龍馬を暗殺したのは新選組ではないか」と疑っていた土佐藩の主張により、近藤は板橋刑場において斬首されたのだった。

ときに慶応4年4月25日(1868年5月17日)、享年35歳。近藤の首はその後京都の三条河原に梟首(きょうしゅ)(さらし首に)された。

(東京・北区にある新選組供養墓)