気まぐれ人物伝
ひじかたとしぞう 天保6年(1835年)〜 明治2年(1869年)

略歴

多摩(現・東京都日野市)の豪農の家に生まれる。(近藤勇より1歳下)

剣の修行を重ねるうちに、近藤勇と知り合い、天然理心流・試衛館に入門。

将軍・家茂の上洛にさいして、その警護を行う「浪士組」に参加し、京都へのぼる。

浪士組は、京都で会津藩預かりの「壬生浪士組」へ、さらに「新選組」に発展。 近藤を局長におしたて、土方みずからは副長として、実質的な指揮をとる。

池田屋事件」では、先に突入していた近藤隊を掩護、のち、念願の幕臣にとりたてられるも、戊辰戦争がはじまり、連敗をかさねる。

流山で新政府軍に捕らえられた近藤の助命嘆願のため江戸に下るが、江戸城開城を受けて幕臣らと江戸脱出。

宇都宮城を落として会津へ。会津戦線が激しくなるなか、仙台へ向かい、榎本武揚の旧幕府海軍と合流。箱館(函館)へ向かう。

土方らは箱館を占領し、榎本を総裁とした「蝦夷共和国」が設立される。しかし明治2年5月、来襲した新政府軍との戦闘のさなか、土方は銃弾に当たって落命。享年35。

生涯

新選組のスピリットを体現した土方

土方歳三(ひじかたとしぞう) は、肩書きこそ副長だったが、実質的には新選組を動かしていた実力者だった。サムライにあこがれて剣の道を進み、局長の近藤とともに新選組を率いて、近藤亡きあとも、最後の最後まで幕府のために戦い抜いた。新選組のスピリットとはある意味、土方の理想を体現したものといってもいいだろう。

幕府の凋落(ちょうらく)が生んだ「ラスト・サムライ」と言ってもいい土方だが、たんに旧弊な様式に固執するわけではなく、刀の時代は過ぎたと判断すれば洋式の軍制を取り入れたり、髷(まげ)をおとして洋風の髪型に改めるなど、合理的で柔軟な思考の持ち主でもあった。

面相もかなりイケメンであり、今日でも沖田総司とならんで新選組ファンのなかでも一、二を争う人気を誇っている土方は、幕末の京都においても、町娘たちのあこがれの的だった。屯所(とんしょ)に届いたファンレターを自慢げに仲間に見せつけていたらしい。

土方は、農家の末っ子に生まれながら、最終的には「蝦夷共和国」の幹部にまでのぼりつめた。かりに土方が倒幕軍側の国に生まれていれば、維新に貢献した元勲として歴史にきざまれたことだろう。

行商のかたわら剣術修行に励む

土方歳三は、天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に生まれた。年少の折り、現在の「上野松坂屋」に奉公に出ていたといわれているが、確かなことはわからない。

土方は、薬の行商をしながら剣術修行に励み、他流試合や道場破りを重ねるうちに、同じ多摩郡出身の近藤勇と出会った。25歳のときに天然理心流(てんねんりしんりゅう)に入門している。

時は安政年間の末期、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が攘夷・反幕派の大名や浪人たちを片っ端から粛正する「安政の大獄」の嵐がいよいよ本格的に吹き荒れようとしていた。 そんななか、年も近く同郷で剣術修行に励む土方と近藤は、この騒然とした世に生まれた自分たちの進むべき道を語り合い、同じ夢を共有したのだった。

それは、武士になって武士として生き、武士として死にたいという夢だった。

本来農民である彼らが、こんな思いをもつにいたる背景は、多摩という土地がらにもあったといえる。 多摩郡という地域は、江戸期の大半を幕府の天領として過ごしてきた。いわば地域全体が旗本意識をもっている。大名ではなく、直接将軍・幕府のためにはたらいているという自負が、武士ならず農民にも浸透していたのだ。 天領は大名領に比べて年貢も軽く、民衆も比較的豊かである。将軍・幕府に対して忠誠心が強くなるのは、当然のことかもしれない。

(東京・新宿区の試衛館跡)

新選組結成へ

嘉永6年(1853年)米ペリー艦隊が来航し、西洋文明がもつ武力を背景に鎖国の扉をむりやりこじ開けられて以降、幕府の立場や影響力は日増しに落ちていった。そして国内では「神州(しんしゅう)をけがす外国は断固打ち払え!」と主張する攘夷派が身分の上下を問わず跋扈(ばっこ)し、市中の治安は悪化した。江戸期の安定をもたらしていた封建的な秩序も崩壊の一途をたどる。

まさに内憂外患のこの難局を、幕府は朝廷と手をむすぶ「公武合体(こうぶがったい)政策」で切り抜けようとした。その一環として、将軍家茂(いえもち)が3代将軍家光以来、230年ぶりに上洛することになった。この上洛にさいして、幕府が警護要員として募集したのが「浪士組(ろうしぐみ)」である。

この募集に応じて、土方は近藤ら試衛館(しえいかん)道場の仲間たちと共に参加。文久3年(1863年)2月に京へ向かった。

しかし京に着いた直後に、浪士組のプロジェクトを発案した清河八郎は、「浪士組は、これより尊皇攘夷の先頭に立って戦うべし!」などと宣言したため、浪士組は分裂。多くは江戸に帰参したが、土方らはあくまで幕府のために働くという当初の志を貫くため、京都守護職にあった会津藩の預かりというかたちで、京都に残留することになった。

ともあれ、武術に励む余裕を身につけていた豊かな多摩の農民たちは、サムライとして生きる道を見いだすため、こぞって京にのぼっていった。そして浪士組が分裂したあとも、近藤・土方らは、最後まで主君(幕府・将軍)に殉じる道を選択したのだった。彼らのグループは、浪士組 → 壬生浪士組を経て、「新選組」の名を拝領。「誠」という一文字をもって、その忠誠心のシンボルとした。

ちなみに、新選組はのち、尊王攘夷派の浪士たちに天敵として恐れられることになるが、尊皇攘夷という思想が即、反幕府を意味するわけではない。

むしろ新選組ができた当時は、建前としては幕府も「尊皇攘夷」であった。というのは、国内のほとんどすべての人間が攘夷(=外国を打ち払うべし!)を主張していたため、幕府も国内向け(朝廷向け)のアピールとして、攘夷運動に理解を示すふりをせざるを得なかったからだ。

ところが長州など、より過激に攘夷を主張する武士・浪士たちが、急進的な政治活動に走り、政権をゆるがすような治安の悪化が顕著になってきたために、こうした過激派を厳しく取り締まっていくことになるのだ。その先兵となったのが、新選組である。

土方は、試衛館時代の道場主でもあり親分肌の近藤勇を新選組の局長として押したて、みずからは副長として組織のブレーンとなった。彼についたあだ名が「鬼の副長」。剣の道に打ち込むなかで、精神的にも真の武士道をつらぬこうと、厳しい規律を自らにも隊士にも課した。 そして、幕府に刃向かう勢力や隊規を乱す者には、苛烈ともいえる容赦ない仕置きを断行していく。

池田屋事件では後方指揮官として活躍

真の尊皇攘夷運動の総本山だった長州藩は、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で京を追われていたが、その後も勢力挽回を期して地下活動を続けていた。いっぽう新選組は、京都守護職・会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)の命をうけ、長州勢の意をうけた尊攘派浪士たちの探索に当たっていた。

そして、土方は長州藩の間者(かんじゃ)となって活動していた商人・古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕縛。古高を壬生屯所で拷問にかけた結果、古高は、京都の町に放火し天皇を長州にうばい去るという恐るべき計画があることを白状した。

(京都・古高俊太郎邸跡)

さらに、この計画に関して密議をおこなうため、浪士たちが集結するという情報をつかんだ新選組は、会津藩に通報。しかし会津藩の動きがおそかったため、新選組は近藤隊と土方隊で手分けをして独自に探索を開始した。

そして近藤隊が三条小橋・旅館池田屋で集会を開いていた浪士たちを発見。20名以上の浪士たちにたった4人で斬り込んだ。

おくれて到着した土方隊は、すでに戦闘中だった近藤隊を掩護するとともに、現場にかけつけた会津・桑名藩の藩兵たちを牽制して、手柄をうばわれないようにしたという。こうした土方のマネージメント力も効果を発揮して、新選組は京の町の「守護神」として一躍その名を京の町に響かせることとなった。

(京都・池田屋跡)

鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)

しかし、新選組の栄光も長くは続かなかった。

新選組の後ろ盾となっていた幕府は、薩摩・長州を中心とした反幕府勢力に押され、ついに15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は「大政奉還(たいせいほうかん)」をおこなった。家康以来260年間守り続けてきた政権を朝廷に返上したわけだが、そこには「返上は形式的なもの。実質的にはこれからも政治のトップでありつづける」という慶喜のしたたかな計算があった。どうせこれまでのような幕藩体制を維持できないなら、先手を打って政権を返すことで、倒幕派の矛先をかわし、徳川家の力を温存したほうが得策と考えたのだ。

ようやく江戸幕府はつぶれた。しかし徳川家はあいかわらず残っている。これは薩長側にしてみればまったく不十分なのだ。「幕府」から名を変えた別の政体のもとで、依然として徳川家が政治の主導権をにぎりつづけるであろう。徳川家を完全につぶして、まったく新しい政治体制を構築しなければ、外国に対抗しうる強力な国家はつくれない。そう考えた薩長側は、「王政復古の大号令」を発して、徳川慶喜の辞官・納地(つまり徳川家の権力を剥奪する)を下命した。

これに反発した(旧)幕府勢力と、薩長を中心とした新政府軍が、京都南郊の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激突。戊辰(ぼしん)戦争の緒戦となる「鳥羽伏見の戦い」が勃発した。

このとき、土方は新選組を率いて奮闘した(近藤は大坂でケガの治療中だった)が、薩摩の小銃隊の前に大敗。徳川慶喜が大坂城からひそかに江戸に逃げ帰ったことを受けて、新選組も江戸に帰還する。

流山で近藤と別れる

その後、新選組は「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と名を変えて甲府へ向かい、新政府軍と甲州勝沼で戦った。ただし土方は進軍の途中で、援軍要請のために江戸に舞い戻ったため、戦闘には参加していない。

勝沼での戦いは、新政府軍に先に甲府城を奪われたこともあり、さらに兵力自体もまったく劣っていたために甲陽鎮撫隊の惨敗におわり、隊員は散り散りになって江戸に逃げ帰った。この戦いの結果、近藤を見限った永倉新八と原田左之助が新選組を離隊。沖田総司も結核の闘病中であり、もはや昔日の新選組の面影はまったく消え失せてしまっていた。

同志や兵員が次々に離脱する中で、土方は江戸で地道に募兵活動を続けながら再起をはかっていたが、下総国の流山で新政府軍に包囲され、ついに近藤が捕らえられた。敵に包囲されたとき近藤は自刃を覚悟したが、土方がそれを押しとどめ、「あきらめずに最後まで生き抜いて戦おう」と出頭を促したという。近藤は旧幕軍の残党の頭目として捕縛されたが、このころ近藤も土方も変名を使っており、かつて京都で反幕活動家を何人もあの世に送った新選組の首領と気づかれなければ、重い処罰はまぬがれる可能性もあった。が、その期待は裏切られ、正体を知られた近藤は板橋で斬首となってしまったのだった。

同志近藤を失った土方だったが、しかし土方のサムライスピリットはいささかも衰えてはいなかった。慶応4年(1868年)の4月に江戸城が開城となり、江戸が新政府軍の手に落ちると、江戸を脱出。一路北へ向かうことになる。土方の辞書には降伏という文字はなかったのだ。

土方は、旧幕府歩兵隊を率いる大鳥圭介(おおとりけいすけ)とともに、宇都宮城で新政府軍と相対し、一度は宇都宮城を陥落させたが、のちに新政府軍の巻き返しにあって戦闘中に足を負傷。傷をいやすために会津に潜伏した。土方は会津の町外れにある東山温泉で療養し、この間に、天寧寺に近藤勇の墓を建立したという。

(土方歳三が療養した会津・東山温泉の「不動滝」)

その後、戦列に復帰するも、旧幕軍・新選組らは母成峠(ぼなりとうげ)の戦いで敗れ、会津藩の防衛は困難になった。ここで土方は仙台に向かい、旧幕府艦隊をひきいて江戸を脱出した榎本武揚(えのもとたけあき)と合流した。奥羽越列藩同盟に期待をかけたが、この同盟も次々に新政府軍に降伏して崩壊。東北諸藩が新政府軍の軍門にくだっては、もはや最後の陣は蝦夷(えぞ)地(北海道)しか残されていなかった。

函館戦争でついに討死

土方は榎本艦隊の人となり、慶応4年(1868年)10月に蝦夷地へ上陸した。さきに(日米和親条約による)箱館開港を機に幕府が築城したユニークな星形の城郭・五稜郭(ごりょうかく)を落とし、箱館、松前、江差を占領した。12月には五稜郭を拠点とした「蝦夷共和国」が設立され、榎本武揚が総裁、土方が陸軍奉行並という地位についた。

蝦夷共和国は、江戸幕府がその最期をとげるために北海道に開設した「臨時政府」のようなものだったが、結局は半年ももたなかった。

翌明治2年(1869年)5月になると、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組の隊士島田魁らが駐屯していた弁天台場が包囲されたのを知った土方は、城を出て救援に向かったが、馬上で敵の銃弾を身体に受けて命を落とした。享年35。土方の死から一週間後に榎本が降伏して箱館戦争は終了。同時に戊辰戦争も終わりをつげて、「江戸幕府の最後の残り火」も完全に消滅したのだった。