地図と写真で見る幕末の史跡
下関の史跡 京都の史跡 会津の史跡 江戸の史跡 横浜の史跡 鞆の浦の史跡 高知の史跡 鹿児島の史跡 霧島の史跡 長崎の史跡 萩の史跡 板垣退助 皇女和宮 高杉晋作 徳川慶喜 近藤勇 土方歳三 沖田総司 永倉新八 斎藤一 藤堂平助 幕末トラベラーズ
>>>或旅人の戯言
■甘利氏と福澤諭吉

安倍内閣の閣僚としてTPP交渉の指揮を執ってきた甘利明氏が、民間会社との金銭授受問題により閣僚を辞任しました。こうした問題は政治家個人の資質というより、政治と金にまつわる制度と慣習をなかなか変えられないということにその本質があると考えるのですが、それはともかくとして、甘利氏がその退任の挨拶において「責任の取り方に対し、私なりのやせ我慢の美学を通させていただきました」という言葉が印象に残りました。

この「やせ我慢の美学」というのは、福澤諭吉の『痩我慢の説』を念頭に置いたものではないかという意見もあるようです。福澤の「痩せ我慢」には、「武士の意地」ともいうような情念が込められていますし、甘利氏の「潔さ」がいかにも武士らしいという声も聞かれるようです。じっさい、甘利氏の祖先は武田信玄の側近中の側近だった甘利虎泰(あまりとらやす)であるとされていて、甘利氏自身もそうした武将の末裔であるという意識と誇りを大事にしているのかもしれません。

福澤諭吉の『痩我慢の説』は、明治24年(1891年)に著された論説で、日本が国際社会の中で強国と対等に渡りあっていくためには、痩せ我慢の精神が必要であることを説いたものです。
「痩せ我慢」というと、内心では弱っていたり困っていたりしているのに本音を隠して強がりを言ったり平静を装うというような意味に使われるようです。どちらかと言えばあまりポジティブなイメージではないですね。

しかし福澤はこうした痩せ我慢こそが重要であると言います。それは前時代でいえば「武士の意地」というものに当たり、しかし「武士は食わねど高楊枝」のような単なる見栄っ張りを指すものではありません。
たとえ自分は敵よりも実力が劣っていて、戦ってもおそらくは敗北するであろうことが分かっていたとしても、重要なことは勝つか負けるかという結果ではなく、終始、闘争精神を持ち続けることである、ということです。

もし痩せ我慢の精神がなければ、弱者はいつまでも強者の家来でなければならず、小国は大国の傘下にいなければなりません。福澤が強調するのは、まずは痩せ我慢の精神を持って臆することなく周囲の「敵」と対等に向き合い、内では自らを研鑽し鍛えつつ、弱者から強者への地位へと自分を引きあげていこうということです。当然これには、被植民地化の危機感をつよく持っていた明治日本の現状がありました。

福澤はこうした見地から、幕末時に戦わずして江戸城を明け渡してしまった勝海舟を批判しています。たとえ時勢の利が幕府側になかったとしても、幕府は薩長勢を相手に徹底抗戦し、どうしても勝利できないことを覚った時点で城を枕に討死にすべきであったといいます。勝と西郷の会談によって平和裏に江戸城明け渡しが行われたことにより、多くの人命と財産が救われたことも事実ではあるが、それよりも最後まで戦い抜くという敢闘精神が萎えてしまい、日本の将来にとっては決してプラスにならないと主張しているのです。

こうした福澤の主張からいえば、甘利氏の言葉と行動は果たして一致しているのか(福澤諭吉の『痩我慢の説』を意識しているのであれば)ちょっと疑問に思えるところですが…。
武将・甘利虎泰は、武田信玄が信濃進出を目指して村上義清と対戦した上田原の戦い(天文17年[1548年])において奮戦むなしく戦死しました。敵の矢を受けて主君の馬前に討死にするという武者としての理想的な「死に様」を、甘利氏は美学と表現したのかもしれません。

[2016.01.30]
-----------------------------------------------

>>>「幕末トラベラーズ」について

いつも「幕末トラベラーズ」をご覧いただきありがとうございます。

当サイトは、幕末という激動の時代を生きた旅人たちの足跡をわかりやすくまとめたいとの思いで作成したものです。

※このサイト内コンテンツの無断転載はお断りします。(当サイトのコンテンツ(文章・写真・図版等)は、出版物に使用する可能性があります)

※コンテンツにつきましては、細心の注意を払って作成しておりますが、万一、内容の誤りや不備によって閲覧された方が損害を受けられても、当方では責任を負いかねますのでご了承ください。

※サイト内のページへは、ご自由にリンクしていただいて結構です。

※サイトの管理人へのご連絡はこちらからどうぞ。

幕末トラベラーズ管理人 bakutora2号