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■日本一カッコイイ役人・中島三郎助

先日、NHKの歴史番組「歴史秘話ヒストリア」で幕末の忠臣・中島三郎助を取り上げていましたが、なかなかすばらしい内容でした。

私は中島三郎助について、函館戦争で父子ともども戦死したことくらいの認識しかなかったのですが、番組でネーミングしていたように、「幕末の最初と最後に立ち会った男」だったんですね。そして「真のラストサムライ」の一人でもあったんですね。

浦賀奉行所の一与力として、真面目な役人生活を送っていた三郎助は、嘉永6年(1853年)6月にペリー艦隊が浦賀に現れたとき、真っ先に折衝の任に当たります。アメリカ側から「幕府の高官でないと話をしない」と言われ、とっさに「浦賀の副奉行」と偽って旗艦サスケハナ号に乗り込みます。
場合によっては切腹沙汰にもなりかねない身分の騙りですが、来航の目的をただし艦船の様子を調べることが急務と信じた三郎助は、勇気ある決断をして「敵中へ」飛び込んでいったのでした。

徳川幕府の終焉期である「幕末」は、ペリー来航から始まりますから、ペリー艦隊に最初に接触した三郎助は、たしかに幕末の最初に立ち会った男ということになりますね。

その後、三郎助は、海防力増強をめざす幕府の方針のもと、地方奉行所の一官吏から、造船、海軍の専門家への道を歩み始めます。日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」建造の中心として活躍、長崎海軍伝習所に勝海舟らとともに第一期生として入所、そして江戸に帰還して築地軍艦操練所の教授に就きます。
役務に忠実で研究熱心、技術者としての才能にも恵まれていた三郎助は、幕府関係者はもちろん諸藩の士からも高く評価されました。造船の知識を授けられた長州藩士・桂小五郎は、終生にわたり三郎助を師と仰ぎ、三郎助の死後も彼の遺族を支え続けたということです。

三郎助は、咸臨丸を修理し、太平洋を横断させるという快挙を成し遂げますが、勝海舟と不仲だったせいか、その栄光の航海に三郎助の姿はなく、その後、三郎助は健康上の理由によって海事の一線から退き、再び浦賀奉行所の一役人に戻ります。

一方、世の中は、反幕府勢力の伸長とともに混迷を深め、ついに徳川幕府は大政を奉還、鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍は敗退を続け、ついに江戸城も開城。三郎助が勤めていた浦賀奉行所も薩長(新政府)軍に抑えられました。

江戸城が明け渡された時点で、名実共に江戸幕府は滅びたといってよいでしょう。幕府に仕えていた多くの人々は、爾後の生活のため新政府側に雇用されたり、新しい職に就くことを考えました。

しかし三郎助のとった道は、これまで代々禄を受けてきた幕府への恩に報い、義を貫くことでした。彼は、新政府軍に反旗を掲げて江戸湾を出港した榎本武揚の艦隊に身を投じ、2人の息子とともに函館戦争に参加したのです。

造船、航海、砲術、事務能力の技術にもすぐれ、人望も厚い三郎助は、その気になれば破格の待遇で新政府の仕事に就くこともできたはず。事実、桂小五郎は三郎助を新政府に招聘しようと居場所を探し回りました。
新選組のように、最初から反幕勢力との戦闘に参加してきた戦士たちならば、今さら降伏など考えも及ばず、死に場所を求めて旧幕府軍に殉ずる...ということもある意味自然な成り行きだったでしょうが、幸福な家庭ももち、過激な武闘家でもなかった(もともと砲術の専門家ではありましたが)中島三郎助が、なぜ滅び行く幕府に忠義立てをし、命を捧げるような行動に出たのか。この点はたいへん興味深いところです。榎本海軍はこうした選ばれし「ラストサムライ」たちを載せて北へ旅立ったのでした。

三郎助は、五稜郭の外側にある千代ヶ岡陣屋を守備する隊長となり、昔の奉行所の仲間たち、そして自らの息子たちとともに、新政府軍と戦います。戦局は厳しく、榎本武揚からは五稜郭内に撤収するよう指示が出るのですが、三郎助は「拙者の持ち場はここだ。ここで死ぬのだ!」と一蹴し、使者を追い返しました。こんなカッコいい役人は前代未聞です。

時代の流れに乗って新政府軍が到来し、旧い社会が壊される。移りゆく時代のなかで、三郎助は「守るべきものを守りたい」と思ったのでしょうか。おそらく彼は、世の中で真に大切なものは何かということをしっかりと見抜いていたのでしょう。そうでなければ命をかけてまで、しかも自分の2人の息子までも道連れにして戦えるはずがありません。

明治2年(1869年)5月16日、中島三郎助は、長男恒太郎・次男英次郎とともに北の大地に散っていったのでした。そのわずか2日後に榎本武揚は降伏し、戊辰戦争は終了。同時に「幕末」も文字どおり終焉を迎え、中島三郎助はたしかに幕末の最後に立ち会った男となりました。千代ヶ岡陣屋があった場所は、のち「中島町」と名づけられ、現在では毎年「中島三郎助まつり」が5月に行われているということです。

[2011.7.19]
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