山口・湯田温泉

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「井上馨誕生地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

井上馨(いのうえかおる)は、天保6年(1836年)生まれ。通称は聞多(もんた/ぶんた)。高杉晋作や伊藤俊輔(博文)らとともに攘夷運動に奔走したが、文久3年(1863年)にいわゆる「長州ファイブ」の一員として伊藤俊輔らと共に藩命で英国に渡航し、進んだ西洋社会の現実を目の当たりにすると(実際にはロンドン到着前に寄港した上海の街を見ただけで)すぐに年来の攘夷論を捨て開国主義者に転じたという。

彼らが英国へ旅だった直後に長州藩による外国船砲撃事件が起き、そのニュースをロンドンで知った井上と伊藤は藩に無謀な攘夷をやめさせるため、留学の予定を切り上げて急ぎ日本に帰国した。彼らは長州藩首脳に攘夷の不可を懸命に説いたが結局これを回避させることはできず、元治元年(1864年)8月、四国艦隊下関砲撃事件の発生に至った。しかしこのときの奔走が契機となって井上と伊藤は長州藩の政局にふかく関わることになり、のち明治の元老という地位にのぼりつめる道を歩みはじめたのである。

禁門の変を起こした長州藩は幕府から征討を受けることとなったが(第一次長州征伐)、井上は幕府に対しては臨戦態勢を保つべきであると主張したため、全面恭順派の保守派から危険人物とみなされて襲撃され、瀕死の重傷を負った。怪我から回復した井上は、藩の政権奪取をめざす高杉晋作の挙兵に参加し、以後長州藩代表のひとりとして軍事・外交面における要人となった。

維新後は、明治政府の首脳として外交・財務関連に尽力。外務卿、外相、蔵相などを歴任した。不平等条約改正を目指して日本人の風俗や生活様式を西洋風にあらためる欧化政策を進めた。また近代的な銀行制度導入や三井物産など貿易商社の創設に関わり、近代資本主義の育成に努めた。

PHOTO

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(井上公園は、県道204号線(旧国道9号線)の湯田温泉通りを右に折れる)

(井上公園の入口)

(井上公園の説明板)

(井上馨像)

(井上馨像の説明板)

(「矦爵井上家舊邸地」井上馨の生誕地跡の碑)

(七卿落ちのさい、井上邸に増築され三条実美の宿舎として使われた何遠亭(かえんてい)を再現した建物。井上公園の中で休憩所として自由に利用できる)

(何遠亭の説明板)

(七卿遺蹟之碑。八月十八日の政変で長州に落ちのびた三条実美ら七卿の功績を記念して大正15年(1926年)に建立された)