山口・湯田温泉

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「広沢真臣墓」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

広沢真臣(ひろさわさねおみ)は、天保4年(1833年)12月生まれで、最初は波多野金吾(はたのきんご) と名乗っていた。その人物像は行動する志士というより、どちらかといえば実務にたけた官僚タイプだった。しかし尊皇攘夷の志を堅持し、一時期藩内保守派により投獄されながらも、高杉晋作のクーデターで倒幕派(正義派)が政権を握ると、藩の政務役となり政治の表舞台で倒幕運動に活躍した。

第二次長州征伐(幕長戦争)では井上馨とともに、安芸・宮島で幕府との停戦交渉に臨んでいる(幕府側代表は勝海舟)。 また、桂小五郎(木戸孝允)と連携し、大久保利通や坂本龍馬ら他藩の要人との会談を重ね、討幕の密勅を引き出すことにも貢献した。戊辰戦争では旧幕側との利害の調整にも尽力した。

広沢は木戸、大久保といったヒーローの蔭で実直な働きを続け、明治政府では民部大輔や参議を務めた。木戸・大久保と並んで1800石の永世禄を賜り、幕末の「維新の十傑」にも数えられている。

明治4年(1871年)1月9日に東京の自邸において何者かに刺殺された。実直で人付き合いのよい広沢がどのような経緯で暗殺されたのか、犯人も動機も今に至るまで不明である。遺骸は青松寺(港区愛宕)、のち若林(世田谷)に改葬され、山口の当地に分霊墓が建てられた。

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(住宅街のはずれにある赤妻神社(突き当たりの森))

(赤妻神社の境内に広沢真臣の墓がある。正面に見えるのは同じ場所に埋葬されている錦小路頼徳の碑。広沢の墓塔はその右手にある)

(広沢真臣の説明板)

(右側が広沢真臣の墓。遺髪が納められているということである。左は奥方の墓塔と思われる)