多摩(新選組のふるさと)

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「佐藤彦五郎新選組資料館」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

新選組の活動を語るとき、佐藤彦五郎の存在を忘れることはできない。佐藤彦五郎は日野本郷の名主であり日野宿問屋として本陣を預かっていた。近藤勇や土方歳三に率いられた新選組に対して終始物心両面の援助を続けた日野の名士である。

佐藤彦五郎は、文政10年(1827年)に日野に生まれ、嘉永2年(1849年)に近藤周助の天然理心流に入門した。この年の正月に発生した日野の大火で佐藤家が焼失したときに彦五郎の祖母が強盗に殺害されたという事件があり、それが剣術修行を始めるつよい動機となったようだ。彦五郎の理心流入門にさいしては井上源三郎の兄・松五郎の紹介もあった。

彦五郎は自宅を兼ねた日野宿本陣の敷地内に剣術道場をつくり、近藤周助を出稽古に招いて修行に励み、短期間で急速に腕をあげて4年後には免許皆伝に達した。彦五郎が天然理心流に入門したことで、日野宿全体に理心流が広まることとなり、なにより歴史に貢献したことは、近藤周助の養子となっていた近藤勇や、佐藤彦五郎の義弟の土方歳三、また近隣の井上源三郎や、近藤勇を慕って剣術に励んでいた沖田総司、山南敬助らの出会いの場をつくることとなったことであろう。

文久3年(1863年)近藤勇らが浪士組に参加して京都にのぼった後も、彦五郎は彼らと頻繁に書簡をやり取りし物心両面で支援を続けた。

慶応4年(1868年)正月に鳥羽・伏見の戦いが起き、幕府軍の一員として奮戦した新選組は敗れて江戸に戻った。そして迫り来る官軍に対して新選組が甲陽鎮撫隊を組織すると、彦五郎も農民を中心とした春日隊を組織してこれに加わった。しかし鎮撫隊は甲州勝沼の戦いに完敗し、彦五郎も空しく帰郷した。日野はその後官軍によって徹底的な捜索を受け彦五郎も厳しい日々を過ごすこととなる。維新後は新選組隊士の復権と顕彰のために尽力した。明治35年(1902年)死去。享年76。

PHOTO

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 (佐藤彦五郎新選組資料館は、佐藤家の子孫の方によって運営されている。場所は日野宿本陣の裏手(南側)で、建物の前には日野用水が流れている)

 (資料館の前に掲げられた下佐藤家裏門の写真。佐藤彦五郎は下佐藤家の出身)

 (資料館は月2回の開館で、通常は閉められている)