多摩(新選組のふるさと)

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「近藤勇生家跡」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

近藤勇は、天保5年(1834年)10月9日、多摩郡上石原村在の宮川久次郎(源次郎)の三男として生まれた。幼名は宮川勝五郎。この生家跡は近藤勇が生まれ育ったまさにその地であり、すなわち文字通りの新選組誕生地ともいえる。

宮川家の屋敷は蔵屋敷なども含めて7,000平方メートルというから、ほぼサッカーグラウンド1面分ほどの広さを持っていた。当時としては裕福で格式の高い百姓であったことは、苗字を持っていたことからもうかがえる。

勝五郎の父・久次郎は幼少時に家が強盗に襲われたとき何もできなかったという苦い体験から、自衛の手段として剣術を学ぶことに熱中した。そして自宅に32坪の剣術道場まで作ってしまったのである。久次郎は、当時多摩地方に天然理心流を広める活動をしていた江戸・試衛館の近藤周助に自宅道場にも来てくれるよう依頼し、周助は月3回出稽古に訪れるようになった。

勝五郎は兄たちと剣術稽古に励んでめきめきと腕を上げた。勝五郎が兄たちと共に天然理心流に入門したのは嘉永元年(1848年)11月11日で、そのわずか八ヶ月後には、目録を授けられた。(天然理心流では、切紙、目録、中極位目録(ちゅうごくいもくろく)、免許、印可、指南免許の順に技量認定書を与えている)

勝五郎は剣術ばかりではなく読書もよくし、また度胸や戦略眼も人一倍あった。ある日の夜、父の留守中に数人の賊が忍び込んで家の中を物色していることに兄弟たちが気づいたとき、兄の粂次郎は、日頃の腕を試すときとばかり勇んで戦おうとしたが、勝五郎はそれを制して、「今は賊も気が張っているから出て行くと危ない。帰り際なら気も緩んでいるだろうからそこを狙ったほうがよい」と言い、兄もこれに同意して機を見計らって協同して撃ちかかり、見事に強盗の一味をやっつけることができた。

このような武勇に優れた勝五郎を心底気に入った近藤周助は、久次郎に頼んで養子にもらい受けることにした。こうして嘉永2年(1849年)10月、勝五郎は周助に養子入りし、名前も島崎勝太(島崎は近藤周助の本姓)となった。 そして万延元年(1860年)3月には松井つねと結婚、のちその名も近藤勇と名のるようになったのである。

生家跡には、近藤勇が生まれたときに産湯に使ったとされる井戸が残っている。建物自体は昭和18年(1943年)に調布飛行場が拡張されたさいに取り壊されてしまった。この井戸のみが生家の存在をしのぶよすがとなっている。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 (人見街道は甲州街道の脇街道として、江戸周辺から府中までを結んでいた。近藤勇の墓所である龍源寺から府中方面に300mほど進むと、右手に野川公園の木立が見えてくる。交差点から公園の南端に沿う道が分岐しており、その分岐点に近藤勇生家跡がある(写真のちょうど中央あたり))

 (分岐点には堅牢地神の社が建つ。大地の神として豊作祈願や地鎮の役割を担う。この後ろに生家跡がある)

 (近藤勇産湯の井戸。勇も何度この井戸から水を汲み上げたことだろうか。右の社は近藤神社で昭和初期に建立されたもの)

 (調布市の説明板)

 (近藤周助から近藤勇の父・宮川久次郎に宛てられた養子縁組の書状は、調布市に寄託され、市有形文化財に指定されている)

 (上の説明板の「宮川家復元図」の部分を拡大)

 (街道の府中側から。左手の建物のあたりに生家・宮川家の母屋が建ち、手前のほうには畑が広がっていた)